次の朝、抉った痛みも残っているはずなのにプロイセンはいなくなった。 引き裂きかねないくらい掻き抱いた身体があった場所から、ぬくもりも残さず。
帰ったときの荷物はそのままだった。 黒ずんだ日記があったが焼けて読めなくなっていた。
もう一つ、厳重にくるまれた箱を見つけた。プロイセンには大きくて今の俺には小さい靴が入っていた。物資不足の中、よくこんなものを用意できた。俺の姿を見て渡せなくなったのだろう。プロイセンと別れたときから、ずっと成長していたから。あの直前に渡そうとしたのだろうが、それは俺が遮っていた。
添えられた手紙の文面は甘い言葉ではなかったが、靴の入った箱をテディベアのように抱えて俯いた。日付は数ヶ月前だった。
約束したのに手紙も送らなかった馬鹿ヴェストへ。
俺様は最近いらいらしている。なぜなら戦場に行けなかったからだ。ここも戦場だが、俺の居場所はない。あんな風に俺が取り乱したのは当たり前の権利だ。国とはそういうもんだ。お前を殴るのもお前が手紙を送らなかったせいだ。俺は悪くない。俺は戦場から来るものなら何でも欲しいっていうのに、まったくお前は昔から気が利かない。
でも、俺様はこの素晴らしい頭脳で考えた。ヴェストの手紙、別に戦場からじゃなくてもよくね? 来たら好きな奴から手紙が来たぜ!と親父の墓の前で踊ってしまってたはずだ。これが俺の男だと自慢するんだ。親父はその点ものすごく理解があるのだ。兄弟だから?そんなの知るか、お前は俺のものだ。
噂をたくさん聞いた。俺を追ってきているらしいな。無理はするな。二度目はもっときついはずだ。傷が浅いうちに引き上げろ。
ポーランドの家でお前の所業も見たよ。あのヒステリックな上司に唆されたとしても、あんなにやさしかったお前を、こんな風に育ててしまったのは俺だ。お前を殺して俺も死のうかとも考えたが、それは無理だ。能力的なものもあるが、何でだろうな、あれだけのことを見てもやっぱりお前への気持ちは変わらなかったからだ。
お前がどうなっても、何をしても俺だけはお前を許してやる。だから死ぬなヴェスト。神様に与えられた物を使って自分で道を切り開け。俺を捨てて、前へ走れ。お前ならできるよ、お前なら。
お前は俺のものだけど、俺を持ち続ける必要はお前にはない。あとどのくらいここに留まっていられるか分からない。だからこれを書く。会う前に消えてしまうかもしれないからな。連合軍の爆撃で、箱ごと灰になってるだろうな。そしたら、想いを抱えていってやるぜ、ざまあ見ろ!というわけで、この手紙は見られることはないぜ、俺頭イイ!
いなくなった後の俺は、この靴を抱えてるんだ。親父と世間話でもしながら、三千年先くらいまで待って、お前が来たらこれでも履かせてやるよ。俺は超格好いいペガサスにでも乗るが、お前は走っているのがお似合いだ。ワハハハハハ!
俺が兄弟としての感情をなくし、あいつの周りも、あいつ自身も壊すつもりだった間、あいつはこんなことを思っていた。
消えた先、どういう場所に行くかわからないのに、ずっと先に俺に渡すつもりの靴なんぞ持っていけそうもないところに持っていくつもりで。
あいつは決して利口じゃなかった。でも、きっと愛が何かは俺より知っていた。
まだ身体のコントロールは利かなくて、涙も勝手に出てきた。火傷に沁みた静かな長い涙だった。涙は巻いてくれた包帯代わりの布に落ちた。これを巻いたとき、あいつはどんな気持ちだったんだろうか。
ベッドに俺を押さえつけたとき、俺に肩をつかまれたとき、あいつはあんなに震えていたのに。
どうして受け入れてしまったんだ。どうして抵抗しなかったんだ。投げる石が足りなくなるくらい石を投げてくれれば良かったのに。いつもならやられたら50倍にしてやり返す男がどうしてあの時だけ。
ひどいことをした。守ろうとしてくれたプロイセンに付け込んだ。あの人の純粋な気持ちを、血が付いた靴で踏みにじったんだ。
アメリカやイギリスの連絡を受けて、彼らに管理された生活を送ることになった。いわゆる仕事の必要のない生活だ。ハト時計を作ることさえもできない。犬も飼えない。時計は機械だから軍用につながり、犬も軍用犬になりうるからと、何だその理論は。
一人でいてもできるのはサイズの合わない靴を履いての芝刈りくらいだ。暇過ぎて何の理由もなく、少し走りたくなった。
ボンの自宅から道の外れまで。ついでに町の外れまで。ついでに、郡独立市の外れまで走つことにした。ここまで来たんだからついでに州を横断しよう。その通り、俺はノルトライン=ヴェストファーレン州を横断した。
何の理由もなく走り続けたら、国境まで来た。昨日までなかった国境だ。どうせここまで来たのなら、左向け左して走り続けよう。
国境沿いに走ると海へ出た。海に出るとどうせだから、今度は回れ右して走った。
疲れたら眠り、腹が減ったら何か食べた。走りながら母で上官で兄で戦友でもあった人のことを想った。そして、誰よりも別れた日の彼のことをいつも想った。
季節が変わる世界の中、風土もさして変わらない国境の向こう側を想った。
理由を尋ねられても走りたいからとしか答えられなかった。
アルプスより高い山を走ったときは、悟りを開いた求道者と歓迎された。物好きな旅行者たちはバッグパックを背負いながらいろいろな手段で追ってきたりもした。
プロイセンは俺を捨てて前に進め、と書いたから、走ったのはそのためだったかもしれない。でも、無理だった。それはそうだ。会いたくて、その近い場所を走り続けてしまっていたのだから。
3年2ヶ月と14日と16時間、超えられない境をを走り続けた。やがて疲れてうちに帰った。そうしたら、そろそろ仕事をしても良い許可が出た。布切れのようになった靴を俺はしまった。
何回も戦争が起きて、テロも起きて、様々な国の上司が殺されて、それよりたくさん辞めていって、たくさんの国家そのものも大きく変わってしばらく経った頃、手紙が届いた。あの、住所しか書いていない例の手紙だ。
だから、靴を取り出して、ここに来ている。
目的地に着いたのは、日も暮れる頃だった。プロイセンは石が詰まれた手入れのされていない壁に水色のシャツを着て立っていた。第一印象は、線の細い少年に見えた。痩せたことには変わりがないが、プロイセン独特の色彩の目や、耳から首筋にかけての線はより強く、見るものに訴えかけるものになっていた。相変わらず彼は美しかった。
「ヴェスト!」
親しげなまるで久方ぶりに会う一般的な兄弟のように彼は発声した。車に手を振ってくれた。
「久しぶりだな。遠かったか。道が悪かっただろ。やべーよな。俺様への土産を忘れたとは言わせないぜ。ほほう、そのクーラーボックスはヴルストか。ヴルストなんだな!久しぶりの肉だぜ、いよっしゃぁ!あ、黒鷲の羽だ」
一度にたくさんしゃべられて俺はようやく一単語しか言えなかった。
「……羽?」
「お前の肩についている。きれいだな」
あの時とは逆に、プロイセンが俺を抱きしめながら肩にひょいと触れた。
荒んだ地域なのに、どうしてこんな簡単にきれいという単語が出てくるのだろう。先ほどの戦乱では一線を離れていたプロイセンは、長年こういう暮らしをしていたせいか、角みが取れて、純粋になっているらしい。
「栞にでもするぜ! ほら来いよ」
「あ、ああ」
家の中は、外ほどは荒れていなかった。旧式だが手入れのきちんとされたストーブに、小さな鉄のアイロンが乗っていた。
「手紙を読んだ」
「どっちの」
「両方」
「そうか。壁がなくなってすぐは首都周辺はぶっそうになってて、こっちに引きこもってたんだ。フリッツ親父の墓も近いしな。俺様一人なら何とかなるんだが。悪かったな。連絡しなくて」
プロイセンはテーブルにあった革の分厚い日記を取り出して、ページをめくり、文字の書かれた最後のページに羽を挟んだ。ばらばら文章や写真の切り抜きが挟まれていた。俺のニュースばかりだった。
「そんなところにいたのか、ほらヴェストに挨拶しろよ」
「こんにちは」
テーブルには白墨と黒板が置かれていて、ジャガイモのような形の丸とも幾何図形とも判別しづらい絵図が並んでいた。子ども用の座が高い椅子も置いてある。そこの下から匍匐前進で小さな少年のつむじが現れた。
「ああ……;、こんにちは」
「テレビ見ていい?」
「音を低くしとけ」
隣の部屋に背を向けて行く子どもにプロイセンはやさしく笑った。彼はまた戦う母鳥に戻っていた。きわめて平和的なやり方で。
「ロシアが手放した弟でも預かっているのか。どこだ?」
「ベルリン。父親に一番近い街だ」
間抜けなことに俺は腰が抜けて、後ずさりした。身体が震えた。常識はずれな奴だったが、ここまで常識はずれとは。国家が子どもを生む例はある。生む手段は人間とはかなり違っているが。生むのは大抵女性の姿をした国ばかりだが。とは言え、俺たちは姿も機能も男性だが、人間とは違う。住民たちは男性もいれば女性もいる。人間とは違うなら妙な現象が起こるかもしれない。なんか混乱してきたどうしよう。
「い、いい子か?」
「育てられてきたお前が聞くか。俺様がいい子に育てられないわけはねーだろう。育ちは遅いが、最近ぼこぼこ増えてきた国なんかよりベルリンが一番だぜ」
いい子だった俺は、結局こういう結果になった。プロイセンの基準のいい子はどこにあるのだろうか。単なる強がりか。
「話をしてやってくれよ」
おずおずと奥の部屋に向かった。ベッドルームだ。子どもはアニメに夢中だった。
俺は5歳ほどに見える子の隣に座った。生まれて40年以上であることを考えれば、確かに育ちは遅いが利発そうな子だった。こんなことを考える俺は親ばかだろうか。
髪の色はプラチナブロンド。目は左がプロイセンと同じで、右が青だった。まつ毛が長いのはプロイセン似だ。時々する瞬きが何とも子どもらしい大きな目に似合っていた。
もしも神様が俺たちに罰を与えるというのなら、どうしてこの子はこんなにもかわいらしいのだろうか。
「プロイセン」
「何だ」
「俺は、ここにお前に謝って、愛しているといいに来た」
「ようやく俺様の魅力に気づいたか。遅ぇぞヴェスト」
「でも、それだけじゃ全然足りないんだ。感謝とか、賞賛とか何もかもお前に全部伝えきれない。両手で抱きしめたい相手が二人もいるのに、俺は二本しか腕が無い」
「それなら今はベルリンだな。俺はもうお前に抱いてもらっている」
言いつけられたように俺は、何を見ているのかと子どもに聞いた。
発音が難しいキャラの名前を答えた。未来のこういう道具を作ってみたいと。
背中からプロイセンが鼻でちょっとあいつらしい意地悪な笑いをして、お前たち頭の傾げ方が全く同じだぞと言った。そして、こう続けた。
「お前に似て良かったよ。でなかったら、一人寂しすぎて、ここで俺は消えていたかもしれない」
そのときに俺は思い出した。プロイセンに会った瞬間、若々しすぎる姿を見て忘れていた事実に。彼は、もう消え行く存在なのだ。
俺の家に身一つで二人は帰ってきた。日記さえもプロイセンは置いていった。もう俺がいるから切抜きを貼って見る必要もないそうだ。
最初から家族だったように過ごした。プロイセンの体調の良い日は、遠乗りをしたり、ビードルに食べ物をたくさん積んでピクニックをした。サッカーでどこが勝つか、クーヘンの切れ端を賭けながら観戦した。
体温が日に日に低くなっていく人とは対照的に、ベルリンは人間の子どもに近いスピードで成長した。俺との同居のためだろう。元来、都市は国より成長が早い。
時々、遊びに来たという名目で盟友たちが様子を見に来た。
イタリアは結婚式をしようよと言った。馬鹿なことをと思ったが、本当に彼はケーキと音楽を用意した。そんな色事に関することだけはやけに早いのだ。畏まって神父の服を着て、題目を真似をする友人を前にしたら、彼をかわいがっていたプロイセンは、しょうがねぇな付き合えヴェストと赤い顔で袖を引っ張った。結局、ウィンクするイタリアの前でキスを交わす羽目になったのは、泣きたくなるくらい素晴らしい一生の不覚だ。
スペインとは歌と踊りで一晩を明かした。ベルリンをかわぇえかわぇえと笑顔で抱きながら、南イタリアが来なかったことを彼は謝った。既に統一された国なのに生きながらえている彼にとって、プロイセンに会うのはきついことだろう。それでもスペインが土産に抱えてきた花束は瑞々しかった。
クリスマスにはフィンランドがやってきて、預かってきた木馬や揃いの椅子を置いていった。彼自身は近くの狩場から上等なジビエを持ってきて、妙に照れた顔をしながらベルリンを撫でた。
疎遠だったスイスでさえも、水を送ってきた。氷河が溶け始めてあまっているからとか、そんな理由だったが、クーラーの苦手なプロイセンに涼をとらせるのに、それで作った氷はとても役に立った。
日本はコミックとゲームと預かってきた白黒熊のぬいぐるみと柚子茶を持ってきたが、ベルリンが一番喜んだのはワールドカップでも使われる軽く吹くだけで澄んだ高音が出る真鍮のホイッスルだった。
地中海の国々と仲の良い彼は、プロイセンさんの戦う姿は素晴らしかったとおっしゃってましたよ、私も一度お相手したかったものです、と言った。仲は悪いが、うちの近所に別荘を持っていたりもするので、ベルリンとサッカーでもしに行こうかとぼんやり思った。
出張シェフと称して、これ以上ないディナーを提供してくれたフランスには、プロイセンの見ていない時に一発殴られた。フランスの拳の方がダメージが大きかったが、それでも飽き足らず、大きくなったらお兄さんのものになっちゃいなよとベルリンの手をいやらしく握るので、一発返した。
オーストリアは、ハンガリーから土産を預かってきた。丁寧なレースの入った子供服だった。女物だった。ヨーロッパの旧共産圏のメンバーはプロイセンに連絡することを禁止されていた。オーストリアの行為もすれすれではあったが、規律にうるさい彼がここまでした理由は、ハンガリーの存在だけではないだろう。プロイセンが手紙を書いては失敗したと丸めて捨てていて出せなかったため、こっそり俺が拾って代わりにオーストリアに渡した。一回丸められたものなので皺になってすまないが、と断り書きを入れて。誓って言うが、内容は見ていない。
子ども部屋を作ってやったら、ベルリンよりプロイセンが喜んだ。いつもあっちで寝て、しょうがないなと一人寝転んでいるたら、もうベルリンは寝たからと隣にうずくまった。時には待ちきれずに子ども部屋に行くと、プロイセンは天使の頬にキスを落としていたり、額を撫でてやっていた。月が彼らをルネサンスの宗教画のように光らせて、じっと眺めざるを得なかった。
どちらの夜も、指を絡ませながら色々な話をした。別れた後のことも、前のことも。ベルリンの前ではしない鼻っ柱の強い語り口は、そのときの俺だけのものだった。時々、遠くを見ながら彼は話したので、羽一本もつぶさないほどやさしく触れた。あいしていると、そのときはいくらでも言えた。プロイセンは、当然だと言ってうなづいた。
ロシアが意外なほどベルリンにはいい父親だったこと、バルトたちやポーランドのこと。孫の顔を見せに行ったこと、ベルリンの右目が俺と同じことに至っては、毎晩言った。
プロイセンは、一つ一つのことを昔より慈しむようになっていた。ステンレスのスプーンや、ちょっとした布や、古びたレコードや、ベルリンの作った木製のコップとか、ある朝、家の前に置かれた古い日記帳と一本のひまわりとか。
昔よりいろんなことを許していて、それが来るべきときを待つようで寂しかった。だが、かつてのような恐怖とはそれは違った。
わかっていたのだ。本来、あの時に彼はいなくなってしまったはずなのだと。この時間は、誰かがくれた奇跡でしかない。
信心深いプロイセンはそれは神様だと言ったが、あまりそうは思わなかった。どちらかと言えば、いつまでも思い出し、いつか自分はベルリンを失ってしまうのではないか、もしくはベルリンはプロイセンと俺を見送る苦しさを知らなければならないのか、と不安がらせるためだと思った。俺にとっては、限りなく都合のいい罰かもしれないけれど。
袖をまくって髪を洗ってやったときだった。俺たちはそういう身体なので、肌には傷が残らず最上級の陶器めいていたけれど、指を分け入れた後は髪が驚くほど手に残った。もちろん、この頃はそういったことに俺は大分慣れていた。
湯船にはイギリスが余ってるからとくれたハーブオイルを垂らしてやった。本で調べたところによるとリラックス効果があるらしい。手作りのそのオイルは、プロイセンのお気に入りになっていた。かつて剣や銃を向け合った相手も、今は鋏でやさしい一品を作る。それは彼なりの俺たちへの贖罪なのか、それとも彼は彼なりに思うところがあるのか。いずれにせよ、俺はその匂いをつけたプロイセンを抱きしめるのは好きだった。
興奮するか、ああ、余裕だな興奮しろよ、してるぞほら流すから、あ~まじきもち~ヴェストこういうの上手いよな。
バスタブに身体を埋めたプロイセンは、うっとりと目をつぶっていた。あの夜、肩を掴んだときの表情と似ていた。
「なあ」
プロイセンの声で我に返った。
「スターリングラードは怖かったか?」
シャワーの栓を開いて適温か確認した。
「ああ。ノルマンディーも、エル・アラメインも怖かったし、ビルケナウは我ながら最低だった」
水音が響く。雨のように飛まつが散った。
「だがそうだな、時々銃声がやんで、星が出てくるときれいだった」
浮上した潜水艦の上から夕日が沈むのを見るようだった。山の湖も見た。鏡のような水面の上下に同じ景色がうつっていた。サハラでは、境がわからなかった。どこまでが天国で、どこからこの世なのか。
「一緒に見たかったぜ」
「……お前もいたよ」
すすぎながら言ったものだから、プロイセンにその言葉が届いていたかどうかあやしい。シャワーを止めて、俺はバスタオルを干したバーから取り出した。
バスタブに残されたプロイセンの声がした。
「最近思うんだよ。俺たちが辿る道は、神様が決めているのかとか、俺たちが決められるのかって」
「何だ急に」
「俺は神様がくれたお前の腕の中で消えることを選んだのかなーと」
「そんなこと……」
「勘違いするな、俺だって消えたくはねぇよ。だけど、きっと親父も、マジャールも神聖ローマも、俺が殺したたくさんの奴らも、そう思ったんだろうな」
言葉が見つからなかった。湯を注いで泡が流れた頭をそっと撫でることしかできなかった。
それでもプロイセンは、愛していると言われた後に頷くのと同じように頭を動かし、小さく、おれはしあわせだと呟いた。
彼の涙を見たのは、それが最初で最後だった。
湯の跡だったのかもしれないし、単にシャンプーが沁みただけかもしれないけど、一度くらいはあいつの涙が見たかったから、その一度はこの瞬間だったと思いたい。
プロイセンはこの会話をした次の土曜日に消えた。
その前日に、新しく就任したベルリンの上司が挨拶にきた。俺とプロイセンの関係をすぐ理解した彼は、自分のパートナーの自慢話をして、仕事が出来るようになるまでベルリンを守ることを約束してくれた。成長具合と十代の国がいくつかあることを考えると、あと数年か。
彼が帰った後、度量はわからないが女嫌いで派手好きなところが親父と少し似ているとプロイセンは言った。
安心したのだろう。そして、思い残すことがなくなったのだろう。
やっぱり俺は国の消失を、プロイセンで知ることとなった。あれだけ嫌がったのに、その瞬間はどうだったか覚えていない。
手を握ったような気がする。抱きしめたような気も、口付けたかもしれない。怖気づいて見ることもできなかったかもしれない。曖昧過ぎて、どこからが願望なのか思い出せない。おかしなことで、あのたった一晩や、消失寸前の何気ない日々の方が、ずっと思い出すことが多い。
予想はしていたが墓は造れなかった。人間みたいな墓なんかいらないと言っていたから、これはこれで良かったのかもしれない。代わりにプロイセンの大切な人の墓に行く。花束を置いて俺は敬礼する。世界遺産の宮殿は、かつて忘れ去れられたことが嘘のように観光客がやってきていた。
プロイセンが嫌っていたシュタージのファイルは、秘密裏に処理されるところをブルドーザーのような力技でアメリカが奪還し、ひどい内容でショックを受けるから俺に見せることはできないと言った。それでも俺は一部を入手し俎上に出した。アメリカの責任と俺の責任が異なるから起こった結果だ。どちらも正しいと思う。
あいつはよく言っていた。誰かの死が俺たちの生の一部なら、俺たちの死も誰かの生の一部だ、と。でも、悲しいことには変わりがない。あいつの言葉は、ほとんどは彼が慕う元上司からの受け売りばかりだった。
ベルリンは泣かなかった。強情なところはプロイセンと似ている。三食食事を作って、髪を梳かし、歯も磨かせている。サッカーも教えている。とてもうまい。釣りもする。バイオリンまで弾けてしまう。とても利口だ。あいつにも見せたい。
あの子も、よく彼に手紙を書いている。読むなといわれたから、プロイセンの部屋に封を切らずに置いておいた。彼がいたとき、毎日花を飾ったように、今も飾った花の隣だ。ベルガモの黄色い小花が、白い便箋をやさしく見ている。
プロイセン。俺にはまだわからないよ。
戦場で飛んでいたお前、横暴な長だったお前、兄だったお前、母だったお前、俺自身の鏡だったお前。
どれが本当のお前で、どれがお前の本当の運命で、どれをお前が望んで、どれを俺が愛したのか。
多分、答えを出すとすれば、その総てなのだろう。
総てが同時に成立してしまったのだろう。
だから、とても今寂しい。かつてお前だった場所に、欲しいものがあれば何だって届けてしまうくらいに。
ベルリンにはプロイセンの日記をやった。一つは、この家に来たときからの日付で始まっていて、もう一つは、あのときの黒鷲の羽が栞代わりに挟まっているものだった。
プロイセンの日記は古い言語で書かれていて、俺にしか内容は読めない。古い日記を届けた主は読めなかっただろうに、これをもってくるときに何を思ったのだろうか。
息子は、色の異なる二つの瞳を見開きながら、懐かしい匂いがすると言った。おじいちゃんがくれた日記だからかな、とも言った。さすがに何百年も経っている紙がそんなきれいなはずはないが、プロイセンにとっては新しく日記を始める度に、その習慣を身につけさせた人を思い出していたのだろう。
ベルリンは毎日のように図書館に行って解読しようと試行錯誤している。マニュアル好きな奴だ。しょうがないので、好物のヴルストとジャガイモが必ず入っている弁当を持たせて見送る。
日記についてだが、実は最後のページにはこう書かれている。
我が双頭の一対よ、我が誇る弟よ、友であり、同志であり、愛しき地よ、注いだ血よ。そして、我が子の父たる子よ
汝は我の総てだった
てわけでそろそろ俺様は一人になって楽しんでやるぜー!
最後の最後まで我が兄らしい。
だから、今でもひょっこり現れるような気がしてならない。シュヴァルツバルトの奥で、こっそりお気に入りの馬でも走らせていそうだ。
人の一生も、国の行く道も、予想の出来ないことばかりなのだから。
リュックサックを背負って歩いていく息子の背中ごしにホイッスルが鳴っている。それに呼応するように高い鳥の声が降って来た。
Fin
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