<カレイドスコープに花束を>
絵の中の少女たちは成長しない。
髪型だって変えるだろう。額を出すこともあるだろう。
結んだり、美容院で切ってもらったり、もしかしたら染めることもあるかもしれない。口紅の色は、マニキュアの模様は、ヒールの高さは、ピアスの石は、マスカラの長さは。記憶と同じものにすればするほど、それは現実とは離れていっているに違いない。
筆を置いた。模写元の少女の絵と向かい合わせる。
ゆっくり描けばいい。もう何枚描いたか数えることもしなくなっているのだから。時間はいくらでもある。
お茶でも淹れて休憩しよう。先日作った砂糖菓子はまだ残っていたはずだ。
とうに針が止まっていたレコードを戻して新しい盤をかける。マイル・デイヴィスに代わり、気持ちを落ち着かせるには、エリック・サティがいいだろうか。少しアップテンポな演奏で再生を始めたレコードに、傍らにおかれた香水を一押しする。ゲランの夜間飛行を部屋用にするなんて贅沢と思うが、どうせ自分につけて出かける場所はない。映画館やコンサートホールや図書館もなくはないけど、もう飽きてしまった。
上半身を伸ばすとそれなりに根つめて猫背のままで描いていたことに気づいた。手を洗えば、絵の具が混ざり合ってシンクに消えていく。はちみつが入ったソープの香りにほっとして、ホーロウのケトルをガスコンロにかけながら、戸棚に並んだ瓶を眺める。
カモミール、レモングラス、ローズマリー、ダージリン、ウバ、アールグレー、アップルティー、メープルティー。ちょっと手先が迷ったが、結局ウバに落ち着いた。これには濃いミルクティが合うので、ミルクパンにブリキの瓶から牛乳を注ぐ。これもコンロにかけ、その頃にはケトルも蒸気をどんどん吹き出していたので、ティーポッドに半量ほど注いだ。葉っぱが湯の中を対流し、沈んでは浮かんでいく。南国の香りがややもすると冷たさの残る部屋に満ちる。砂時計を傾けて、その行き先を眺めていたら、インターホンが鳴った。
窓の外は、青空と緑の芝生が広がっている。変わらない風景だ。お客とは珍しい。
「はいはい、なぁに。赤い服の女? 造花ならやれるけど、どうするの。それとも無個性? 新作の服が欲しいならデザイン画くらい描きなさいよ」
「ギャリーなんなの! あたしが出てった時と全然違うじゃないここ!」
目の前には、デニムの数センチほどしかないスカートと、スパンコール入りのキャミソールをまとったショートカットの少女が立っていた。安全ピンが耳だけでなくまぶたにも付いている。緑の口紅をはみ出しそうな勢いで塗っているその顔は、見覚えがある。
忘れようたってそうそう忘れられない。自宅の中央に置かれた絵を一瞥する。さっきまで新しい絵と構図を同じくさせようと模写していた絵だ。
全く同じ色の髪に、夏の終わりの海の色のような目。奇抜な格好と髪型こそ変わったが、背丈はほとんど変わってない。
「メアリー? あ、あんた、何なの! ちっちゃい女の子がヘソ出しちゃって!」
「年頃の女の子なんかじゃないわ! あたし今二十二ってことになってんだから! それより何なの、ミラノのオペラ座に、あっちはニューヨークのアポロシアター? そっちには、ムーランルージュ?! おまけに○ィズニーランドまで! お父様の世界観どこ行った!」
「自分の生活の質を求めただけよ。その気になれば、大英博物館やルーヴル美術館も作れるわ。生まれた時からここしか知らないあんたとは違うの」
お茶も、ミルクも、ティーポッドも、友好的な美術品たちも、すべては想像力の産物である。その匂いや質感や味や設定付を意識すれば再現は容易かった。最初にこの世界に足を踏み入れた時、クレヨン画だった世界はその証拠である。クレヨン画の世界を作ったのがメアリーであるなら、と、この絵本のような農村の小さな家の世界を保てるようになり、好きなものを作り出せるようになっていた。自分が知らないものは作れないのがネックだが、心の片隅にあった風景や本や映画や音楽を再現することは慰めにはなった。
「それに、あんたにあたしに文句言う権利ある?」
直情的な少女は、現実世界に言っても嘘をつくのが得意ではないらしい。悔しそうに唇をかんでいる。ああ、泣きそう。
「冗談よ。希望するなら、元通りに戻してあげるわ。さて、わざわざここに戻ってきてくれたんだから、おもてなしぐらいはするわよ。最近の流行のグルメはわからないけどね」
「ギャリーごめんなさい! あたし、あたっ……」
自称二十代でも自分の腹くらいまでしかない少女が飛び込んできて、その髪を撫でてしまった。自分の命を奪った少女ではある。しかし、一人で長年ここで暮らしてきてわかったこともある。その気持ちは痛いほどに。
ひとしきり泣いたところに、淹れかけの紅茶を出した。この世界では冷やそうと思わない限り、冷えることはない。
それでも、そんなに涙をミルクティーにこぼしたら、しょっぱくなるに違いない。
嗚咽の中、途切れとぎれにわかったことは、少女は何も知らないまま現実の世界に来てしまったため常識も知らず、学校にも馴染めず、たくさんのトラブルがあったこと、成長することがなかったこと、それによって「成長しない病気」だと診断されたこと、両親は優しかったがそれ以来腫れ物に触るようになってしまったこと、元々彼らに似ていなかったために父親は母親の不貞を疑い不仲になってしまったこと。
「こんなはずじゃなかったのに、外に出ればしあわせになれると思ったのに……」
「なるほど、それでいかにもな不良少女な格好なわけね」
「もう嫌! あたしもうこっちに戻りたい。それで、ギャリーが――」
破裂音が響いた。手のひらが痛い。自慢じゃないが人を叩いたことなんてほとんどない。腕っぷしは弱いし、何より自分で言うのも何だが怖がりだ。それでも、人様の子どもを叩くなんてとんでもないとは思うけど、自分がされたことを思えばそのくらいは許されると思いたい。
「甘ったれたこと言うんじゃねぇ! こっちが嫌で逃げ出して、今度は帰りたい? 世の中ナメてんのかオラァ!」
「ぎゃ、ギャリー?」
だけど、この態度もいつまでつづけるわけにはいかないだろう。気持ちを落ち着かせるためにタール12mg入りと宣伝されていた箱から一本取り出し咥えた。落ち着くにはこれに限る。もちろん、自分の体にニコチンが巡っているわけではないけれど、気分の問題だし、もはや肺がんの心配はないのだ。煙を吐き出し、バカラクリスタルの灰皿に欠片を落とす。
「まあ、現実の世界の方が、ここ以上に恐ろしいってのはあまり否定はしないわね。ここの絵たちは単純だもの。あんたはまだラッキーだったわ。世の中には血が確実に繋がっている親子でも殺し合いになったりするもの」
「戻りたくない、の?」
メアリーの問いに、部屋の隅に架けられた古びたコートを見た。冬に限らずほとんど一年中着ていたコート、人と馴れ合いたくなくて身につけた口調、奇抜な髪型、集まってくるのは享楽的なその時限りの付き合いばかり。赤いバラと青いバラと天秤にかけて、戻らなかった時に悲しむ人間が多い方はどちらか、考えなくても明らかだった。その選択には、今も後悔はない。
「そうね……。戻りたくないと言えば嘘になるわ。でも、今更、戻ったところで仕事もなし家族もなし、ないない尽くしでどうなるかしら。それに、あんたの例を見たところ、あたしも戻ったところでこの姿のまま生きていかなきゃいけないわけでしょ。きっと、誰もが不審に思うわ」
「イヴは違うよ。私のこと変じゃないって言ってくれたもん」
二杯目のミルクティーを与えると、メアリーは両手で受け取った。今度はちゃんと甘い味を飲めるだろうか。マグカップを持ったメアリーは、描きかけの絵に向かう。隣には自らの絵もあり、それはまるで鏡のようで。
「ねぇ、ギャリー。この絵頂戴!」
「あんたってば、本当わがままねぇ」
「いいじゃん。頂戴頂戴頂戴!!」
「ダメよ、それ今までで一番よく出来てるもの。散々、模写したり色んなもの作ったりした成果だわね」
「そっくりだね。あの頃のイヴと。でも、今はもっと綺麗になったよ。修復師を目指してて、美術大学に行ってるの」
――ギャリー
絵の中の少女が口を開く。
――ギャリー、会いたい
「イヴがその道を選んだ理由は、いつも美術館に行くたびに一枚の絵がずっと気になってたから。あたしがお父さんとお母さんや、その後食べさせてもらえるアイスクリームやパフェに夢中になってる間もずっと」
あなたを 見ていた
二人の絵の少女の唇が一致する。
……私ね、もうこの子がいるからいいんだ。ずっと一緒にいられる友だち。もし、本当に私のこと許せないなら、そっちの絵、煮るなり焼くなりしていいから
バイバイ ギャリー
男には十数年分の記憶がなかった。美術館で行方不明になったという事件の記録は残っていたため、名前やIDは判明したものの、家族も見つからず、頼れる知人もなかった。しかし、なぜか記憶がない間に絵を描く技術、それでもって表現する方法は身についていた。
絵を描くことにした。
路上で似顔絵を描くこともあれば、絵葉書程度の風景画を描いた。プラタナスの花に、初夏の噴水を取り巻くスミレ、新聞売りの隣に繋がれたヨークシャーテリア、地下鉄で肩を寄せ合う恋人たち、路上ダンスに集まる少年。腕がいいと評判だったので、列ができるようになった。
客寄せには一枚の絵を飾っていた。金髪の少女の絵である。男は直感的に自分が描いたものではないと思っていたが、元々美術が嫌いな方ではなかったし、記憶がない間に得ていた唯一の財産であったので大切にした。
評判を聞いた美術商が一目見て譲ってくれと小切手を差し出したが、男は首を振った。代わりに美術商は、男の絵をいくつか結構な値段で買って行った。
やがて、その絵にも顧客が付き始めたので、美術商は男に画廊での展示をしないかと持ちかけた。男は一緒に少女の絵を画廊で展示することを提案した。額ぶちを新しくしてやりたかったのである。
画廊で待ち、新しい額縁を担当者が運んできた。男は自分の絵を預ける以上に緊張し、その手に委ねた。
「初めまして、クリーニングと修復を担当させていただきます。よろしくお願いします、先生」
「先生は止めて頂戴よ、ギャリーでいいわ」
「そういうわけにもいきません」
この業界らしく、知性に満ちた整った外見を持ちながら、愛想のない担当者だ。作業しやすいように髪をくくり、メガネを取り出してかけた担当者は、簡潔な挨拶の後に、すぐに作業に取り組み古い額縁を外し始めた。
「ワイズ・ゲルテナの『メアリー』ですね」
「よくご存知で。あたし、ここのオーナーに教えてもらって初めて知ったの。やっぱりプロは違うわねー」
「いえ、この子……」
そこで、修復担当者は初めて微笑んだ。
「私の妹なんです」
言った側で、彼女は顔を赤らめた。おかしなことを言ったと自覚してしまったのだろう。少女じみた行動にバツが悪かったのか、誤魔化すように絵に向かう。
「貴方……、私の一番好きな絵と似てますね。同じくゲルテナの『忘れ――」
「あなたこそ……」
男は、キャンバスを裏返した。そこに浮かんでいるのは、表の絵とまったく同じ構図の少女の絵。髪の色、目の色、服の色は……。まるで、まるで。
メガネごしの彼女と目が合った。裏の絵の少女と同じ目の色。タッチは自分の物、なのに描いた記憶がない。とても大切な少女だったと思う。
結んだ髪も色は絵の中と変わらない。赤いリボンをブラウスから下げ、タイトスカートから覗く足は、ワインレッドのパンプスに落ちる。その背はほんの少ししか自分と変わらず。
驚いた顔は昔とあまり変わってないことに、男は気づいた。知らないはずの彼女の名前を呼ぶ。
彼女は目を見開く。
やがて、いつか見たのと同じようにその目を伏せ、かつて届かなかった男の肩に額を合わせ、その腕にマニキュアのない指を伸ばした。
FIN
PR
COMMENT