バラという名前がなくても
彼は子供の頃、かくれんぼうが苦手だった。
隠れるの自体もあまり得意でなくて、うっかり呼ばれたら返事をして見つかってしまうし、一度鬼になったら、誰も見つけられずにうろうろしている内に、日が暮れて、今日も空がきれいだった。とてもきれいで良かった、と感想をまとめていた頃に、行方不明の息子を探しに来た母親に、友だちは皆おうちにちゃんと帰ってるのに、と泣いてしまわれることがしょっちゅうだった。
他のスポーツは得意だったのに、ともかくそういうことが苦手だった。
高校に入ったばかりの頃、ドラッグの誘いを断った。ロッカーに油性スプレーで書かれた血のりのような罵詈雑言はかわいい方で、学校から借りている分厚い教科書は燃やされたし、なくなっている私物を数えたら切りがない。囲まれやすく逃げ場のないスクールバスに乗るのは避けたほうがいいだろうと、あらゆるものを自宅から持ってくるようにしたら、良いトレーニングになった。すばらしい、実にすばらしい。
力、に目覚めたときは驚いたし不安もあったが、少しだけほっとした。過度な力を持ってしまえば、下手をしたら相手を再起不能にしてしまう。ゼロか、全てかしかない。それならば、絶対相手を傷つけさせない選択肢を選ぶことは容易い、中途半端な力よりずっと。それぐらいでは人はどうにもならないだろうという甘えを引き起こす。やられた方にとっては暴力であることは変わらないのに。
「彼」の記憶にアクセスした私は結論を出した。音声周波、骨格は99.46％の一致率で左方距離30cmに座っている対象をヒーロー、スカイハイであるとしていた。
対象者の情報は多かった。映像やマスコミインタビューでの露出度は高かったし、何よりズームをかければ、毎晩観察することは出来た。そのまま、事件が起こり、テレビ番組が始まることもあった。シュテルンビルトで私の次に睡眠時間が少ないという記録はその観察から得た。
しかし、直接的な接触ではより多くのデータを摂取出来た。現在の私の計算によると、今の私が対象者に勝てる確率は0.2237%。私に課せられた命令は「ヒーローを凌駕すること」である。今のままでは命令を果たすことはできない。攻撃はスリープモードになった。
強さの理由を知ろうと探索すれば探索するほど、直接結びつかないノイズが増えた。
イヌについては、すでにデータが集まっていた。公園に毎日たくさん連れてこられる生物だ。大きさ、色、発声、足跡、心拍数それぞれ違うものばかりだが、DNAはどれもイヌ科でイヌだった。私は、新しいイヌのデータを追加した。イヌは攻撃対象に設定されていない。この個体もまた、現在の私の戦闘能力で3秒かからず排除可能だった。私に攻撃を加えられる可能性はなかったので、『大丈夫』と答えた。
隣に座っても、との問いには、既にベンチに座っていて、しかも対象者のデータは私の左肩部のチップに集積されている。データ収集にも都合が良かったため、排除する選択肢は却下された。肯定の返事が選択された。
動体を認識して頚部が作動した。あれはハト目ハト科ハト。この公園で記録したところでは、日の入りの20分前から30分前に毎日飛び立つ。雄が４羽、雌が３羽。雌１羽が３日前に前右方５７ｍ先で生体反応ない状態だったのを記録している。
直径１５ｃｍの黄色成分のある赤の偏位球体が与えられた。私の基準握力で破壊可能だった。構成成分の90%は水分で、粘性が僅かにある液体が手のひらに付いた。化学物質が私の嗅覚中枢を刺激する。博士と別れた後、迷い込んだこの公園に同じ化学物質を発する植物があった。あの落葉高木の原産地は現在地点から東に２万キロ、北に３千キロ地点。あと143日後に白い５弁花をつける。バラ科リンゴ属。
対象者は、強さを作る要素でもあるビタミンやポリフェノールを含むこの球体を、私に与えた。そして、私はこの要素を与えられても摂取はできない。この対象は、無関係かつ無駄なことをする。
そのとき、言葉が出た。
ごめんなさい
この言葉は何だろうか。
昨晩この公園で、推定２３歳の男性が花束を抱えてひざまづいて、「結婚してくれ」と推定２６歳の女性に言った後、女性は「ごめんさい」と言っていた。一昨日、噴水の縁で取っ組み合いをしていた推定７歳と推定８歳の少年二人は、片方は西へ、片方は東へ１００ｍ歩いた後、時速４キロの速さで同地点に戻り、二人とも「ごめんなさい」と言っていた。
二つのパターンの共通性は見当たらない。博士が私に使った言葉にはその単語はなく、データが少ないのだ。
しかし、私の言語中枢は反応した。
ネクストかと彼は聞いてきた。ネクストとは能力を持つ人間のことだ。彼はネクストだ。スカイハイはネクストだ。キース・グッドマンもネクストだ。
私は確かに能力を持っている。人間を凌駕する物理攻撃が可能だし、機動力も高い。しかし、私は人間ではない。
これは矛盾だ。わからない。わからない。
今までの命令にない反応も、矛盾した問いへの答えもわからない。彼に答えはあげられなかった。
しかし、データを集めれば解答が見つかるかもしれない。私は、毎晩観察していたヒーローに接触できたのだ。オーバーヒートを起こしたのかもしれない。
その晩も彼は観察可能だった。私の座っている地点から、南の空、一角獣座の星雲と一致する方向に飛び立った。
ネオンが溢れる街に照らされた青、紫、紺、白、銀、金の混ざった特定不能の軌跡。その色を私は今まで記録した色の中で特異的に記録された。
赤が好きなのかい？
いいえ
私の未熟な言語中枢では表現できず、あの色を答えられなかった。
あの色の名前は何と言うのだろうか。
言語中枢の不完全さは、他にも影響があった。
私には涙腺がない。しかし、言語中枢の未熟さを不都合だと認識している。結果、油分が眼球にたまっている。人口筋肉に複雑な表情筋が組み込まれなかった歪みが引き起こしたのだろうか。
噴水照明が乱反射する。視界が不正確になる。戦闘能力が低下するため、避けるべき事態である。しかし、私の自動制御装置は働いてくれない。私は不完全だ。
私は問う。なぜなら、私にはわからないから。私はなぜと言う。それは、私はもっと彼に教えて欲しいから。
私がもっとデータを集めて、彼を凌駕出来たら、その問いにも完全に解答が出せるのに。
どんどん複雑な心理や記憶が入り込む。そして、私のデータは増える。同じ動き、同じスピード。もう少し集めれば、貴方はきっと一人じゃない。私が答えを出せるのだから。
貴方のデータは言っている。
このアンドロイドを地上で破壊されたら、何が起こるかわからない。被害が大きくなるかもしれない。
了解。
私には燃料も多く、破壊時は電気系統より引火し大規模爆発が起こるため、半径５０ｍ以内に人間がいる場合、その人間は即死するため、私は地上では破壊されるべきではない。
貴方の心理がわかる。
空を飛べないヒーローにこのアンドロイドを倒すのは不可能に近い。なので、今、自分が破壊するしかない。
了解。
私は、私を破壊可能な対象者に、被害が及ばないエリアで破壊すべきである。
今なら私は簡単に、結論を出すことが出来る。私は、もう葛藤しない。貴方に何でも答えられる。
下顎構造が破壊される。両側の口角部分も抉り取られる。顔が変形する。
ああ、これが笑顔というものか。
私が一番好きな色をこんなに近くで見せてくれて、ありがとう。
今なら、あの色の名前も答えられる。
私の好きな色は――
「あら、ロッカーにバラだなんて素敵ね！」
「おいおい、大丈夫なのか？ 萎れちまうだろ」
「ロックバイソン君。大丈夫だ！そして、オーケイだ！ ブルーローズ君にブリザードフラワーにしてもらったんだ」
「ほお、きれいでござるなぁ……」
「あー俺も仏壇に使ってんなー。枯れなくて便利なの」
「虎徹さん、それ多分用途違うと思いますよ。どなたかにお渡しするんですか」
「ああ！今日こそ渡せたらいいと思っているんだ！ 今日こそね！」
私のマイクロチップは四散した。どれもほとんど活動は出来ない。データ復旧は困難だろう。私は不完全に戻ってしまった。
もうあの時のように「笑う」ことは出来ない。
しかし、対象者のスーツの右肩部に微粒子に近い一つが挟まっている物は、時々、音声や映像を拾うことが可能だ。
私は比較検討を行い、対象者を５ｋｍの位置より観察していたときより、ずっとしあわせであると解答を出した。
Fin
PR
COMMENT