重量級の車を引っ張るのも平気らしい男だが、私の車椅子を押すのは随分ゆっくりだった。
前任者からの引き継ぎは、未曾有の大不況だけではなくこの青年の存在も含まれていた。彼は実に平均的な我が国の男性像に近しく、実に若々しく、そして少しばかり愚かだった。もっとも、彼はそれを自覚していたので、愚かな部分をあえて出すことで、後々利を得ることにはたけていた。
「ねぇ、俺がバルコニーから外に出て、このまま貴方を手すりから落としたらどうする?」
その声は明るかったが、私の身体と一体になったこの車輪は整備された白邸の通路にも関わらず、絨毯の厚さに負けじと揺れた。
「落ちて死ぬだろうね。何しろこの足はほとんど動かないわけだから」
足が動かない分、誰よりも身体の動かし方を観察するのには自信があるつもりだ。それでこの地位を得たと言っても過言ではない。
実際、妻を口説いたいきさつも……おっと失礼、これは余談だった。
どうやら、私にも一瞬走馬灯が見えたらしい。冗談じゃない。就任直後に、犯人は公式には明らかにされない人物によって、前任者に引き続き暗殺されるなんてまっぴらごめんだ。ようやく好きな図柄の切手を発行できるポジションに着いたっていうのに。
できるだけ落ち着かされるような、諭すような声色で言った。自分よりずっと頭の位置が高い青年の目はあえて見なかった。
「君はあまり手を動かす仕事が好きではないようだ。この椅子の押し方でわかる。私が足を動かす仕事が好きではないようにね」
小学校の生徒のように、彼は好きじゃないからのかい、と尋ねてきたので、そういうことにしているんだ、と正解を教えてやった。
となると教師のような立場としては、課題を与えるのが一番だろう。
「どうだろう。私の足になってくれないか。報酬は、君に手を動かす仕事を与えること。もちろん最初は力を生かした仕事で構わない」
こんな立派な手足があるのだ。それを生かさない手はない。
良い教師の秘訣は、美点を伸ばすこと。それに尽きる。
やっぱり政治家より教師になれば良かったかもしれないと苦笑しつつ、少しだけ動かし方が安定した車椅子に揺られて、執務室に入った。
fin
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