朝は目ざましもなく赤い目を開けて、行儀悪く裸足でカーペットの上を歩き、気温があたたかければ水混じりのシャワーを浴びて、パンとチーズかもしくはヨーグルトの朝食を摘む。
寝巻であるタンクトップと下着を換えて、兵役時代に使っていたらしいドッグタグだけはそのままに、パン屑をベランダに撒いて、小鳥が啄ばむのを眺めながら歯を磨き、ラジオのニュースから流れるサッカーリーグの結果で、鼻歌が長調か短調かに変わる。
長い柄のある剃刀で、やたら石鹸を泡立ててほとんど目立たないヒゲを剃る一方、銀の髪の寝癖は比較的いい加減に整える。
簡単に外れる鍵をかけて、口笛を吹きながらポケットに手を突っ込んで仕事場か学校か、どこかしらに向かう彼を、誰かしらが追っていく。
追跡者の顔立ちは数種類あり時々入れ替わる。彼らが入れ換わる理由は、単なる交代なのか、それとも別の理由で替わっていくか私は知らない。2~3人、顔を知っている同僚もいたが、いつの間に職場から話題にされなくなった後で、上司として顔を出すものもあれば、そのまま音沙汰がないのもいた。
あの外見だ。尾行するのは楽だろう。変化に富む仕事でとても羨ましい。
小鳥はまだベランダを闊歩していた。エサ不足でアリほどの粒でも彼らにとってはごちそうなのだろう。
花柄の壁紙で覆われてはいるものの、隙間だらけの壁はもろく、大戦の時の銃撃の跡がまだ残っている。そこから音や視覚を拾うのは容易い。音楽は聞こえない。せいぜい鼻歌程度。それもすぐせき込んでしまって、あまり耳触りのよいものでもなかった。
ドアの中には誰も、私が配置した道具ごしへの視線以外では、手紙や電話の声さえも入らない、それはそれは楽しい一人暮らしだ。
私はギルベルト・バイルシュミット青年がいつもと同じ一日を始めたことを確認すると、煤けた毛布をまとって仮眠を始める。
こうして私の一日が終わるのだ。そろそろこちらもシャワーが浴びたい。
バイルシュミットの穴
コンパス、銃剣、腕。
付けもしないエンブレムは、輪郭さえもいびつだった。
それは、この有刺鉄線や壁前の緩衝領域で囲まれた真ん中が少々欠けている国土や、平穏の維持をあくまで名目とした組織の存在理由と似ていたかもしれない。
養成学校を卒業した私は、至極無難な職場に付けた。そしてこれは、単独行動での初仕事に当たる。
対象者は、ギルベルト・バイルシュミットという名前だと教えてもらった。それ以上は不明。
名前と外見の写真、そして住所にいくつも押された捺印捺印しかない書類は、インク1ccも惜しいかのようにほとんどが白かった。
仕事初日と比べて書類の埋まり具合はどうだろう。あまり変わっていない気がする。
隣の部屋を陣どり、必要な機器の配線を行い、モニター越しに彼を見る。ノイズが幾分横線として入るが、画像は卒がなく、ベッドの上で古ぼけたテディベアを抱えてごろごろしているバイルシュミット氏を映していた。
氏と言うと、対象者らしいが、そんないかつい言い方よりバイルシュミット青年の方がその態度としては好ましいと私個人は思っていた。
靴を磨くのは一週間に一度、洗濯をするのは五日に一度、掃除をするのは三日に一度、パンケーキを焼くのは幸運なる一カ月に一度。それらもあまり特徴的ではないリズムだ。
年齢は恐らく20過ぎというところか、色素のほとんどない髪と目や、性格にやや幼稚なところがある以外は、至って普通の一人暮らしの青年だ。
好きなものは、たまに手に入る血が詰まったヴルストと、ゆで上がったばかりのジャガイモ、そしてビール。テレビは愛すべきキャラクター、ザンドマンのアニメーション番組を欠かさず見ていて、でも、モスクワからのニュースもチェックはしている。
たまに捨て犬を拾って、だが、捨てられるような犬は大概ひどい怪我か病気をしているか、捨てられたからひどい怪我や病気になったのか、それとも最初から元気な犬には興味がないのか、甲斐甲斐しく手当てをしても、簡単に薬や命が手に入るわけでもなく、どこかに埋めに行っているのが何度かあった。
私は時々、猶予を与えられて帰る自宅と彼の部屋を比較した。持っているものは大して変わりはない。部屋の広さも同じくらい。だけど、彼の生活は豊かに見えた。西の物資が入っているようにも見えないのに、サッカーチームの好みも似ているのに、この違いはどこから来るのだろう。
一番の違いはここにあるのだろうと判断して、日記を付けることを始めて見た。仕事は記せないので他愛のないことだ。天気はどうだったとか、そういう話題だ。あまり面白くはなかったので三日で止めた。バイルシュミット青年は毎晩、私が見た通りの出来ごとを日記に書いて何が楽しいのだろうか。
一か月が過ぎたが、その部屋には誰も入って来ることはなかった。
他人の存在どころか、ここにいないときのバイルシュミット青年本人も影がない。彼は仕事や課題を部屋に持ち込むことをしないし、恋愛の話もしない。家族がどこにいるかもわからない。
不在時にポストを見たが、それは遥か昔に錆ついてしまっていて、手紙が来ているであろう痕跡はなかった。告書に追加すべき情報のために、屋内への侵入を決行することとした。
規則正しく日没で帰ってくるバイルシュミット青年の不在を狙うのは易しい。合い鍵もなく針金でも開けられるドアはもっと優しい。
本棚の中身を一冊一冊開けてみて、簡単な主義の本や、ロシア語の辞典などの赤鉛筆での線も意味をなさず、レコードも全て国内版。日記は、独り言と大して変わらない内容だった。
私はため息をついて、ラジオが点けっぱなしの部屋を後にした。
帰りにその辺をうろついていた犬を拾ってみた。一週間で世話ができずに然るべき施設に引き取ってもらった。
三か月が過ぎた。下の階の老夫婦が彼の部屋のドアベルを鳴らした。ジャムを差し入れられる。会話の内容から察するにどうやら先日、台所の配管を修理してやったらしい。
半年が過ぎた。上の階の少女は、テディベアときりんのぬいぐるみを交換して行った。いくつかの玩具や絵本を共有しているようだ。
一年が過ぎた。雪が降ったとき、アパートの前でシャベルを振って、道を作っていた。冷やかしに来たボーイスカウトたちと雪合戦に興じ、礼代わりのタバコを上手そうに燻らせて、自作の大きな雪だるまをニヨニヨ見つめている。
休日ではなかった。
夜明けを少し過ぎた頃に目ざましもなく起きて、行儀悪く裸足でカーペットの上を歩き、冷え切っていたので毛布をかぶりながら、パンとレーズンで朝食を済ませたバイルシュミット青年は、黒いタンクトップと青い下着を換えて、ドッグタグを揺らしながら、余ったパン屑をベランダに散らし、二羽の小鳥が啄ばむのを窓に映しながら歯を二分間磨き、ラジオからは彼のひいきのチームが勝って、鼻歌は上機嫌なフレーズをエンドレスで繰り返している。
古めかしい剃刀で、掌に載るほどに石鹸を泡立てて生えていないようにしか見えないヒゲを剃って、寝癖は手櫛で整えた。
前髪を上げかけて、やっぱりおろした。手を鏡に当てる。そのまま、窓の外を彼は向いた。
そして発せられるは、ほんの小さな言葉だった。
「あいしてるぜ、ヴェスト」
西(ヴェスト)――それは、壁の向こう側。
袂を分かった、対立すべき敵国であり、同世代の若者の多くが憧れる地。
ロックのレコードも、退廃的な本も、伝統的宗教さえも排除された部屋はしかし、持ち主の心までは偽れなかった。モニターには、恍惚に近い笑みがあり、それは今までの監視のどの瞬間よりもとろけ切った柔らかみのあるため息があった。
黒だ。
反逆に相応しい証拠だ。録音だって取ってある。
しかし、と考える。
彼はまだ、脱出なり活動なりを行おうとしているわけではない。この一年以上を廻った生活だけとれば、実に落ち着いた、好感のもてる青年だ。
バイルシュミット青年は、上着を羽織って外へ出ていく。いつものように追跡係が追っていく、
言えばいい。もうすぐ交代要員がやってくる。報告すれば、この単調な生活から逃れられる。これだけの規模で監視している対象者だ。昇進も夢ではない。
だが、逆にこれだけの規模で監視しているほど重要な対象者であるなら、処罰も重い。矯正教育で済めばまだいい方だろう。最悪、秘密裏に―――
待ち望んではいても、それは来て欲しくなかった結果だった。
どうすれば。
どうすれば。
「お前、クビ」
口が塞がれた。格闘術の心得はあるが、後ろからの締め付けを振りほどけない。あっという間に床に押し付けられて、さかさまの顔が見下ろしてきた。見なれた赤い目と銀色の髪が額の先に落ちて来る。
ギルベルト・バイルシュミット。
名前と、この部屋での生活しか知らない青年。だが、ここでの生活ならすべてを小さな穴からこちらが知っている青年。
まさかここまで気配なく行動できる体術の達人とは聞いていない。冷静になれ、冷静になれ。しかし、こちらは一年以上実践からかけ離れていた身。
これほどの実力者なら、一年以上かけて短く振られていた尻尾をつかんだ甲斐があっても、抵抗は迷いと共に押さえつけられて。
「向いてねーよ、この仕事。とっとと荷物まとめて出てけオラァ」
沈められた。
絶対的に正しいコンパスも、誰をも排除できる銃剣も、何事にも立ち向かえる強い拳も、ただ掲げているだけでは、力にもなれない。
湿った感触に目が覚めた。
手への生温かさはあれど、目の前はしかしまだ暗くて、恐怖しか感じられる手を無我夢中で振ったら、きゃんきゃん犬の吠える声がした。まさか、軍用犬に任務の失敗を嗅ぎつけられたか。
暗さは突然消えた。犬が紙片を咥えて逃げていく。
「ちょっと、待て……」
「伏せ! ブラッキー!」
雄々しい指示に犬が従う。間違いなくこの掛け声は軍人だ。それも命令しなれている将校。その証拠に、彼の発音はやたらきっぱりとしていて洗練が感じられる。
角から、二匹の犬を連れた男が現れた。先ほどの声の主に違いない。その威圧感のある体格が物語っている。アーリア人らしい金髪と青い目を持つ男は、犬の前に立って、紙片を取った。手袋をはめた指を口元にもっていき読んでいく。
目をあげてきた。こちらと合う。
「……またか」
「は?」
階級はこちらが下の可能性が高いが、思わず聞き返してしまった。
男は紙面の中身をこちらに向ける。
何人もの自分でも知っている政治家や将校のサインが浮き彫りになっていた。その中には西側の要人まで入ってある。
その書類は、私の任命書と同じように、題字が活字で簡潔に綴られていた。
通行許可証
浮かぶのは、ニヨニヨ意地が悪そうな赤い目が細くなる笑みばかり。
「まさかあの男、偽造までしてたなんて」
「いや、その許可証は本物だ。俺が保証する。偽物だったらこの子らは匂いに反応しない」
麻薬ならともかく、偽造書類までわかるなんて、どれほど訓練された軍用犬だろうか。それならこの主はどういう存在だろうか。
見たところ歳は自分やバイルシュミット青年より少し上のようだ。落着きと風格がある。今日は演習の合い間の休日だろうか。服も上等ではあるし、髪もきちんとセットされている。相当な高官でないとこんな格好はできない。
「来い。どうせ兄さんのところから来たなら失業中だろう。仕事をやる。大方、『出てけ』とでも言われたのだろう」
「兄さん?」
「ギルベルト・バイルシュミットと言えばわかるか」
「あ、ああ」
顔立ちは似ているものの、雰囲気はあまり似ていない兄弟だ。バイルシュミット青年は、元軍人らしい最後の姿を除けば、むしろ愛想はよく、ケラケラ笑うことが多かったが、この弟は押し黙ったまま睨むかのようにこちらを見下ろして来る。
怒らせたのだろうか、それともバイルシュミットが彼と兄弟喧嘩をしているのだろうか。
だが、数秒間の緊張感が終わった瞬間、彼はため息をついた。呆れと安堵が混じったようなため息だ。それはなるほど、あのバイルシュミット青年が洩らした秘密の囁きの直後についたため息と似ていなくもなかった。
やはり彼らは兄弟なのだろう。もしかしたら複雑な事情があるのかもしれないが、れっきとした兄弟なのだ。
「あの人は、自分の気に入った人間ばかりこちらに寄こす。それでは手元には、弱った輩しか残らないというのに」
拾われた犬、家には入れず外へ飛び立つ小鳥。情緒ある外での人間関係、一人での生活。
そこでようやく景色が目に入った。道路を行く車は、どれもが磨かれていた。公園のベンチには、読んだら叱られてしまうほどに躍動感のあるひわいなラクガキがされている。ウォークマンを付けた少女が、ローラースケートで通り過ぎる。
まさか。
まさかここは。
「紹介が遅れた」
その薄いが朗々さもある声が、場所で、存在で、夢で、方向で、主義で、空想で、現在で、未来でもあることを告げる。
「こちらが西だ」
つやつやした犬たちの毛並みからは、職場の女性でも使っていないようなシャンプーの香りがした。それは、男が告げたことが事実であることの証拠でもあった。
一週間に一度オーガニックの靴墨を使って靴を磨く、五日に一度洗濯をしながらぼんやり乾燥機ドラムが回るのを見る、三日に一度家じゅうにはたきをかけて書庫とデスクトップを整理する。
上司からしあわせになるメイプルシロップを大量に兄が輸入してしまったと嘆かれたため、一瓶買ってパンケーキを焼いた。
良い匂いに思わずため息をついた後、今なら犬が飼えるかもしれないと思って、然るべき施設の電話番号を調べることにした。
20年ほど続く同じような一日。
しかし、それは実りの多い物だと、今なら日記に書ける気がする。
Fin
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