日本の頬に蚊が止まり、ぱちりと本人が平手をくらわすまで、考慮の時間数分が必要だった。当然、うるち米のつきたてとも表現されるほっぺには赤い跡がとっくに出ていた。
いつもなら、弟の振る舞いに気がつかないなんて耄碌したものあると、自分の方が年上なのを棚に上げて笑う仙人は気づきもしないで、目の前の四角い空間から目を離さなかった。これ幸いとばかりに、日本は中座しますねと蚊取り線香を取りに行った。
帰ってきたら、妙手をくらわせたと思った黒石から2目開けて白石が打たれていた。八つ橋の下、このすっとこどっこい、これじゃあ私の陣地が封じられちゃうじゃないですか、という言葉を押しとどめる。
除虫菊の薬めいた香りが、小さな山吹の光から上り、日本はため息をついて、まだ石のない場所をみる。
捨石にできる場所は、シチョウが取れる場所は、あらゆる可能性についてパソコン計算をも上回る速さで思考しつつ、自陣に少しでも優位になるように。
でないと、明日の食事当番が自分になってしまう。最近、赤字で風邪気味なのに。
日本と中国の成績は、平均すると五分五分だ。昔こそ圧倒的に中国が上手かったが、ここ数百年が日本の方が勝っている。とはいえ、流されやすいのが自分と国民の習性で、最近十年ほどは中国が盛り返している。さて、本日はどちらに転ぶか。
伝家の宝刀で居合をする瞬間か、原稿に最初のひと筆を入れる瞬間並みに集中を研ぎ澄ませた。
「日本ー、3・7は布石にできるぜ」
胡坐をかいて、グレープ味のチューペットを舐めていた韓国が、集中を薙ぎ倒した。
盤面の向こうで中国も、表情はそれほど変えないものの、唇が引きつっている。言われてみれば確かにその通りで、おや私としたことが、という気持ちと、外から口はさまないで下さいよとせめぎ合う。ここは、正々堂々と武士道を貫きたいところだが。仕方なしに、別の悪くないと思った手を打った。
「あぁ!!何で俺の言うとおりにしないんだぜ!謝罪と賠償を要求するんだぜ!!」
「韓国うるさいある。集中できないよろし」
「兄貴たち弱すぎるんだぜ。大体、囲碁は俺がきげ……」
「早碁にしましょう中国さん。これ以上口を挟まれたくありません」
「それについては我も同意あるな」
起源ではないことは、日本も中国もよくわかっているが、実際のところ韓国の口出しに従えば、おそらく勝ててしまう。吸収能力と熱心さ、それと独特の勝負勘に合っていたからか、始めたのが遅まきながら、韓国は異常に強かった。面白くないので、兄たちが対戦したくないと除けものにするくらいには。
「そこ、8・3ですよアニキ!」
日本に負けず劣らずプライドの高い中国も、別のところに石を置いた。
「2・4に置くんだぜ!」
知らないふり知らないふり、聞いてないふり聞いてないふり。と、石を置く前にぱちり音が。袖をひっこめた韓国が、あさっての方向を見ながら口笛を吹いてちょるちょる歌っていた。
「韓国さん」
日本はにっこりほほ笑んだ。
中国の手の先に別の白石を置こうとした手が悲鳴を上げた。
顔の方は主張することも忘れて、呆けた口が日本を見ている。ほほ笑みの裏の一瞬を、まだ自覚していないかにも見える。
「音ほどには痛くはないはずです。碁石を置くのと同じようにね」
「日本が叩いてなかったら、我が石を打ちつけてたある」
中国は微動だにせずに、静かに新しい石を置いた。
「絶対、俺の言うとおりにした方がいいんだぜ。勝てるんだぜ」
唇をまだとがらせているので、日本は諭すように言った。
「岡目八目という言葉がある通り、外から見る方が客観的にいい手が浮かぶものではあります。それでも、勝負というのは、横やりなく、実力も天分もわかりながらそれぞれがやるべきものですよ」
袖に一撃をくらった手を引っ込めて、さすり始めた韓国の腕を日本は取った。
「中国さん、私の負けでいいです。アイスノンと新しいアイスを取りに行きますね。中国さんも食べますか」
「桃味がいいある」
「わかりました」
蚊取り線香はそろそろ終わり、中国が石を片づけ始めたので、わずかにぶつかる音がした。玉砂利を洗うようなせせらぎに、日本はほんのり夏が終わるなと思った。
「やれやれ、明日の食事当番を引き受けることになってしまいましたよ。謝罪はアイスとして、賠償は何が食べたいですか」
「冷麺がいいんだぜ」
「善処します。冷たい麺ならそうめんでいいでしょう。たまには庭で流しそうめんでもしましょうか」
冷蔵庫までの木張り廊下を、電気をつけずに歩いていたら、電灯のない時代みたいだった。蛍が一瞬飛んだかに見えた。気のせいだろうと思うにまかせた。
fin
PR
COMMENT