温度調節のため屋根を覆ってしまっているので空は見えない。それで構わなかった。もう天気を気にする必要もないのだから。曇りだろうと晴れだろうと。
「アニキアニキ!!」
ぶんぶん振る両腕の袖に隣にいた彼の部下だろうか、スーツ姿の男達が顔をしかめていて、それがなおさらおかしくて通路にしゃがんだ。まわりのたくさんの赤い旗を持った国民たちは、この組み合わせに気づくはずもないことが少しおかしかった。
正直なことを言えば、もうここに来るつもりはなかった。それほど問題は起こらないか、テロはないか神経を使った後なだけに、いい加減休みたかったのだ。どいつもこいつも労りが足りない、とこういうときだけ年寄りぶりたかったりもする。
しかし、断ると後々面倒くさい弟が「アイゴォオオオ!」とうるさいのも予想が出来たため仕方なしにやってきたというわけだ。
「さんざん見た景色あるよ」
「そりゃま、そうなんでしょうけど」
目の前では世界のどんな場所にも負けない雄大な競技場が広がり、トラックの白いラインが走っている。
文字通り総力をあげた祭典は、絢爛豪華な開会式から、最大級の参加が満たされ、連発された記録の更新に、言うことのない活躍を見せた民たちに、しかし、もう夏は陽炎のごとく淡くなっていた。肉体を思う存分に動かせる時間が短い彼らは、すぐ次の競技会を見ているのだ。その繰り返しを始めてまだ100年、やっと100年。ひどい戦争もあったというのに、よくこんなイベントが続いていると自分たちも関わりの大きいことながら感心する。
法国が言い出したときは、毒にも薬にもならない祭典だと思ったが、あいつはあいつなりに本気だったのだろう。もっとも、今のような国家規模の大規模なものにしたのは徳国で、戦後の政治面からも盛り上げたのは美国と俄国で、プロとの垣根を壊した派手好きな会長は西国のところだったが。
それと比べれば、歴史も浅く、テレビ中継もそれほどないイベントに、わざわざ祭りの後の疲労も大きい身体を運ぶ理由はないと思った。
弟の妙な長い毛の先を横切っていった、古代戦車さながらの重厚かつ俊敏な筋肉と車輪を見るまでは。
加速がかかり、さながら人も無機物も融合してより速く、より強く、前へ前へとすべての力が協働して進んでいった。
先日、世界記録が出たばかりの人間の記録より、それはずっと音や光に近かった。
よく見ると、中央で行われている投擲でさえも、筋骨隆々の男たちの体幹でありながら、驚くくらいに腕が短い。
それでも、槍は屋根のない空間の風にのり、観客の歓声にのり飛んでいく。
砂場ではモデルと変わらない体型の義足の女性たちが、砂場の上へ身を浮かしていた。金色の花火のように砂は舞い、残された部分を最大限に磨いた大腿の上に落ちた。
「驚いたでしょう?」
たくさんのため息と同調してしまったことに気づいたら、馬鹿面の弟と目が合った。
「俺も20年前、驚いたんです。自分ちでやるまでは、こういうの見ることもなかったっすからね~。つか、俺んとこが初めての共同開催で、正直何でだよ片方だけで十分めんどいんだよとか思ったんですけど。実際に間近にしたら、もうぐうの音も言えなくて」
20年、と心の中で呟いた。
知っている時間と比べたらずっと些細な時間であるのに、自分は大きく変わった。開催している弟にも、どこか冷淡で、こんな風に隣に座ることはなかった。
20年、今度は小さく誰にも聞こえないほどの声に出した。
次のアジア開催地はどこになるのだろうか。日本が手を挙げてはいるが、どうなるかわからない。20年先なら、南の方でやってもおかしくないだろう。
「やっぱり、話に聞くのと実際に見るのは違うっすよね。おーい! テーハミ」
「我の国民達に囲まれてお前いい度胸してるある。応援旗とマスコット取って来るまでじっとするよろし」
それでこそアニキです、と熱い応援から、にやにやに戻ってしまった弟にため息をつきつつ、小銭を入れたがま口の重さを確認した。
日本にしろ、他の家にしろ、まだ彼らはこの光景を見たことはないはずだ。見せたいなと思った。彼らは見て何を感じるだろうと思った。何かが変わるだろうと願いたかった。
永く生きている自分だからこそ、断言しよう。世界はこんなにも、知らない場所がたくさんある。
ならば、いつか、どんな天気だろうと、屋根があろうとなかろうと、その他のいろんなことも気にしない場所も、見られるかもしれない。
呼応するように、鈴のようにがま口の中身が鳴った。
PR
COMMENT