ちょっとSFです。
「時をかける」的なサマウォです。ほとんどパラレルと考えて下さい。
CPはあんまりありません。
タイトルとモチーフは、キャラメル箱な某演劇集団より。タイムトラベルとケンジと言ったらこれだろ!的な。
「ケンジ先生!」
俺は振り向いた。
俺は白衣を着ている。昔いたずらで付けたピアス穴がとうに塞がった耳は全然手入れをしていない。靴は結構古い。老眼鏡のフレームが重い。
何しろ五十もとうに過ぎている。なりふりにはあんまり構わなくなった。
3年ほど前に、桜がつぼみの頃、沼ばたけのあぜ道を全速力で走り、俺の背中に彼女が自転車をぶつけたのも、昨日のように感じる。袴の太ももが捲り上げられたために、真っ赤になった顔で、衝撃で折れた松の枝を構えられて、死を覚悟したのも生々しい。
しかし、簡単には権力に屈しなかった俺はまず、予算で蓄音機を買った。
ベートーヴェンの交響曲六番が、自分用の小さな黒板と本を紐で束ねた女生徒の間に響いた。ラ・カムパネルラの時もあった。流石にもっと新しい曲をかけるわけにはいかないので、それで満足しておいた。
木の校舎はなかなかいい音響ホールも兼ねた。それなら彼女たちは、大きなチェロの中に居つく子ネズミたちか。
宿舎から、耳が遠くなかなか要領を得ない牛乳屋の老婆から買った瓶から、生温かい牛乳を飲みながら、毎朝、音の淡いシグナルが視線を線路越しに交わし合う脇を通った。汽車は、昔見たアニメーションのように今にも朝焼けの向こうに浮かびそうだった。停車場の近くでは白猫とか虎猫が仕事を探しているかのようにうろうろしていた。
あまり体力に自信がある方ではないが、雨にも負けず、風にも負けず、我ながらよくやったと思う。
古い家は、俺が知っていた頃以上に懐かしかった。虫食いの数は少しだけ少なかった。色もほんのり明るい。だけど、家庭訪問で行けば、縁側から木星まで見えそうなのは変わらなかった。
縁日で着ていた和服を褒めたら、ボンタン飴を投げつけられた。
早慶戦のラジオ放送を聞きながら、イナゴを食べた。美味かった。少なくとも接待で洋行帰りの教師だからと連れて行かれた怪しい西洋料理を食わせる店よりは。
のらくろを集めたら、変わったインテリだと噂になった。本屋で少女倶楽部を買っているのを見かけたが、声はかけないでおいた。
ツェッペリン号を見た。飛行船をまともに見たのは初めてだったかもしれない。クジラみたいだった。俺はひどく口を開けていたような気がする。同じように口を開けてみていた彼女がこちらを見て、先生でも驚くことがあるのかと笑った。
裁縫や礼儀なんて教えられなかったし、毛筆で教科書を作るなんてまっぴらごめんだったから、俺は彼女たちを外に連れて行った。
野山は花にも薬にも食物にも溢れていた。
その中では、小さな社会や経済単位がひしめき合っている。
蝶よ花よと称えられ我儘な女子どもに合わせて、いい歳の身体に鞭打ち、山猫が現れてぺろりと食べられそうなほど深い森に打って出た。
鳥はバード、草はグラス、山はマウンテン、花はフラワー、世界はワールド、夏はサマー。
ハチスズメ、カワセミ、ハンノキ、カンバミ、ウメバチソウ。
空の大三角形を結べば180度、アルコルとミザールの二重星、どうして北極星はいつも北を指すのか、どうしてここから南十字は見えないのか、新生と言う名の消えゆく星、どうして太陽は東から昇るのか、どうして季節は巡るのか。
酸素、窒素、炭素、水素、銅、鉄、塩素、ナトリウム、カリウム、マグネシウム。
演繹論、漸化式、プラグマティズム、帰納法、確率論……世界はたくさんの知るべきこと知らないこと面白いこと学べることに満ち溢れている。全部数えだしたら切りがない。それでも、それぞれに造詣の深い相手といつか巡り合えたら、世界は多分違って見えるだろう。
女学生にそんなことを教えて、と鼻白む世間もあったが、俺は自分で言うのも何だが結構いい教師だったと思う。
歳の離れた親戚にしょっちゅう色々教えていた経験が、こんなことで役に立つとは。
資生堂パアラアも知らないと、級友の家柄を貶めた彼女を、いさめたこともある。
どんぐりの背比べみたいなガキンチョが何を言ってるんだ。
そんなものが関係なくなる日がすぐに来る。大事なのは50年先、100年先も、家族でうまい飯が食えるってことさ。
たくさんいる兄たちばかりで蔑ろにされていると、あきらめ半分の悔し涙を流した彼女を思わず撫でたこともあった。幼い自分がコンプレックスに泣いていたときもこんな顔だっただろうか。
そんなものが関係なくなる日がすぐに来る。
ありきたりなことしか、言えなかったけれど。
袴姿の彼女は、卒業証書の入った筒で、今にもこちらに殴りかかって来るかと思えるくらい威圧的だった。
そんなんじゃ婿の貰い手に困るだろうと言いかけて、止めた。そんなことを言ったら、確実に殴りかかってくる。
この三年間で、初めて彼女の将来の婿を心底尊敬するようになった。なんてふてぶてしい野郎だ。何度も殴ってやりたいと思ったけど、敵いそうもない。
「東京に行こうと思います。家なんて関係ない。どうせ兄が継ぐし」
「どうしてだ」
「だって、上田なんて田舎だ。モボもモガもいない。銀座みたいなモダンな世界を知らないと先生みたいな人間になんて、なれないに決まってる」
興奮すると敬語を忘れる。高飛車な彼女の悪い、でも、らしい癖だ。
俺はしばらくそれを聞いた。何しろ彼女と話せるのはあと少ししかない。もうすぐで旅立ちの時間になる。
「……そんなものが関係なくなる日がすぐに来る」
やっぱり俺は凡人なので、ありきたりなことしか言えなかった。
それでも、世界中の人が一瞬でつながって、一瞬で滅びもできるし、協力もできる日がすぐに来ることは知っている。
こんな田舎からでも。
いや、こんな田舎だからかもしれない。
「俺はここが好きだ。世界で一番好きだ」
「先生」
「お前がそう思える未来が、一日でも早く来ることを待ってるよ」
この場所を捨てて後悔した人間なら、ここにいるのだから。
「侘助さん! 血縁には干渉しないって法律を無視して、開発者の権限使って貴方は!!」
「ああ、栄ばあちゃんと俺は血なんて繋がってねーよ」
「血縁ってそういう意味じゃないでしょう。大体、こういうフォロー、僕苦手なんですから」
「タイムパラドックスはこの程度では起こり得ないって証明したのはお前じゃん」
「あくまで机上の理論ですってば、おまけに僕の名前を偽名にして」
「下の名前だけだろ。ありふれた名前なんだから、大した問題じゃないって。なあ、健二先生」
果たして俺は、こいつみたいな立派な学術の求道者に見せかけられたかな。
それに答えてくれる相手には、もう二度と会えやしないけれど。
Fin
PR
COMMENT