スペインの性癖を、俺ほど知っている奴はいないはずだ。
何しろあいつは恋愛に関してだけは変態で不遜でまったくもって思いやりのない最低の男だ。人当たりが中途半端に良いだけにタチが悪い。
あいつの『武勇伝』を知った俺は、ある日提案をしてみた。
初めてというわけじゃなかった。それこそ読み書きより先だったかもしれない。その趣の変態どもに俺はある種の魅力があることは自覚していた。男なんて死んじまえばいいと思っていた。今でも少しだけ思わなくもない。そういう奴らはすることだけやって後は何も教えなかった。どうやって歩けばいいのか、手を動かせばいいのか。
ヴェネチアーノが苦手なのも、会うたびにあいつは俺を美形だの格好いいだの褒めまくるからだ。実の弟なのに怖かった。そんなトゲだらけの俺に対し、オーストリアは数少ない、圧し掛からなかった保護国だったが、持て余したのも無理はないと今なら思う。
俺を子ども扱いしたのはスペインだけだった。警戒中もそれを解いても寝て食って戦ってちょっとだけ色々なことを教えて、の繰り返し。じゃあ、自分にできることはと考えたら、他に見つからなかった。
始めから外道じゃない相手が紳士的に対応するのは普通だ。でも、スペインが、俺以外の相手には外道なのに、俺には少なくとも気持ちの上ではそうじゃなかったっていうのが不思議で、嬉しくてたまらなかった。だから、生まれて初めて誘えた。ずっとこの男の特別でいたくて。
スペインは得意の勘違いをしていたけど、訂正する気はなかった。淫乱と思ってくれた方が良かった。
おい、スペイン以前がどうだったかなんて聞くなよ。思い出したくもねーんだから。
あいつは妙に感動してた。おれ、はじめてじゃない子とすんのはじめてやわーと。
これでもう外に迷惑をかけずにすむだろこんちくしょー。
俺に言えるのはそれがせいぜいだった。言葉とは裏腹に独占欲は満たされたし、何より今までとは違う快感もあったわけで、俺は俺なりに混乱したのだ。好意を持つ相手と合意でするのは初めてだったし。外で暴れている割には、俺には優しかったし。
皮肉なことにスペインとの行為は育ちの悪かった俺に、栄養を与えるようなもんだったけど。それほど、優しく水を何度も与えられるように。
その生活は、ふやかされるように爛れていく。水や肥料が多いと、根が腐るのととても似ている。
終わりは突然だった。
「俺な、最近ちっちゃくないこ相手でも、うふふになってん」
よりにもよってシャワーを浴びた後で。
「だから心配せんでええよ。手当たり次第に、よその子襲ったりせぇへんし」
もう俺に子どもらしさという武器がなくなりかけていたので、諦めるのは簡単だった。大人でも大丈夫なら、俺がこのまま育ったとしてもいい子分はいくらでもいる。
いつだってそうだ。奪われる前に、捨てられる前に、気持ちを逃がす。そうでもしないと、壊れてしまう。
「良かったな」
「えへへおおきに」
その後はどんなことを話したか覚えていない。
すぐに家を出た。ローマ、ナポリを経て、見つからないうちに、電話も引いていない離島にこもった。
俺の隠れ家は崖の近くにある、白い石造りの小さな家だ。ほとんど廃墟だったところをペンキを塗り直して、最低限人が住める環境に戻した。きれいには塗れてないが不自由はない。壁のところどころ石のかけた部分もそのままだ。
ナポリにある自宅やフェリシアーノと一緒に住むローマの住居とは雲泥の差があったが、中は物がない分、散らかってない。
ハゲかけたマットレスに毛布。中古のテレビ。物があるのはキッチンぐらい。
それでもここでの暮らしは嫌ではなかった。
「何で来たんだよ」
「会いたかったからやん」
椅子がわりのワイン箱に座ったスペインに、俺は対時していた。裸電球が、俺の手元にあるレモンシャーベットを照らしていた。食わないと場がもたなかったからだ。
「俺は会いたくなかった」
氷はさながら溶ける砂。南の香りが始まる。やめてくれ。お願いだから、これ以上俺を溶かさないで。
「俺が会いたかったん」
「だってお前、大人大丈夫って!」
器を、テーブルに叩きつけた。俺の目も半分溶けているみたいだった。多少切れ長になったものの色は昔と変わらないはずだ。
だけど、スペインは俺の目よりも土で汚れた指先に手を延ばした。野菜の葉の匂いもする手だ。俺の身体のなかで、一番子どもらしくない場所だ。テーブルに置いた手のうえを一回り大きい手が這っていたのが、そのまま引かれた。
「きれいやな」
スペインの額に指を寄せられた。唇や鼻を掠めた。
「夢のロマーノと同じ……いんやそれ以上やな」
見ては伏せ、見ては伏せることしか出来ない。気持ちと一緒に揺らされているような。
「俺は……」
前髪に触れた。スペインの髪だ。
「ごめんなロマーノ。親分言葉足りなくてごめんな。これからたくさんたくさんあいしちゃるから堪忍してな」
「あいしてって……」
耳を摘んだ。スペインの耳だ。
「かわええよ、ロマーノ。もうおっきくなるの怖がらなくてええよ。俺、おっきいロマーノ大好きやってわかったんから。だからおっきい子大丈夫やわ~て言ったんよ」
「誤解させるなコノヤロー」
「うん、ごめんな。ごめんな。ああ、ロマーノや。本当にほんまもんのホンモノのロマーノやわ」
スペインは、座ったまま俺を昔みたいにぺったり抱えて、とんとん背中を赤ん坊にミルクを吐かせるように軽く叩きながら話した。何度も俺を夢で見たことを、それはそれは詳細ばっちりと。
「んで、いつものベッドに軽く沈んどって。ロマーノ少し苦しそうで、でもしあわせそうで、とても……とてもきれいやったわ」
シーツだけをまとい、自分と手を合わせた俺が見上げている夢。着衣のまま乗りながらずっと俺が泣いている夢。タオルで髪を拭きながら湯上がりのトマト食ってる俺で何で欲情するんだかよくわかんなかったけれど。
「なあスペイン。俺も話がある」
俺のシャワー中のうたた寝で見て、勘違いに足る発言をするのがスペインという男だ。そこに惚れたんだ。
だって、倫理も何もかもぶっ飛んだ力がひたすら眩しくて。スペインが俺を否定しないのは、知ってた。知ってたから、いつかそうでなくなってしまうことが怖かった。優しい手が振り払われたら、もう歩けないかもしれないと。
「聞いてもお前の気持ちが変わらないなら、俺をぶっ壊してくれよ」
もう逃げることも出来ないくらい。
今なら乱暴に突き飛ばされたっていい。そうしたら、自分で歩ける。手を引かれているときはわからなかった顔だって、前に出られれば見えるかもしれない。
一度、土を掻き回さないと苗は立てない。それなら、それは多分今しかない。
うん、わかったとスペインは同じにこにこした顔で言った。
その晩は、話だけをした。
次の晩は、腕だけ絡めた。
次はキスした。
話の後からずっと、俺は俺なりの誘いをかけてみたけど、スペインは壊す前に色々楽しみたいやん、と笑ってほとんど触らなかった。
「お前を抱くで」
提案でなく宣言だった。一週間してからの。昼間に言われて、不意打ちで。でも、俺はうなづいた。何だか、ガキんときより怖かった。
互いに脱がせて、横になって、髪を掴んだ。乱暴に舌を合わせる。スペインの舌は長い。咳込む部分まで貫かれた。この時点で予感がしてくらくらする。
「いちお確認するけど、ほんまにひどいの大丈夫なん?」
「……おう」
「まあ、大丈夫そうやね」
スペインの視線が下に向かっている。あんまり見んなコノヤローと思う暇もなく、押さえ付けられた。
「あがっ」
すぐに入れられた。準備もない上、久しぶりなだけに痛い。
ちらつく顔も名前もない相手。もう滅んだ国だ。話をしたとき、スペインは表情を変えなかったが、もう消えていて良かったと思った。じゃなかったら、確実に世界大戦勃発だ。ざまあ見ろと思ったのもだいぶ前で、ただ、幼い身体のまま積み上げられる心が、さみしかった年月が、一気に溶け出す。やだいたいたすけてどうしていやいやいやいやきもちわるい。
だけど、目を開ければそれは笑顔のスペインで、息が吸えた。ああ、スペインだ、と思った。
涙を舐めて来た。犬猫みたいだ。いや、もっとでっかい獣かな。
「なっまえ……よん……で」
「呼んどるから……いっくらでも呼ぶから。俺んのになって。ホンマに俺んのに」
声は優しいのに、身体は荒々しい。慣れた身体が、記憶をこじ開けて塗りかえていく。身体だけの関係のときだってスペインはいつだって優しい触り方しかしていなかったから。
スペインの血を飲まされているみたいだ。吐き出す寸前で止めて、判断を仰ぐときと、最中の差が激し過ぎて、俺は何度も譫言を漏らした。半分ぐらいは多分いやらしいことだったと思う。
呼吸するように触られていたら、時間の感覚も薄れて、スペインだけしか見えなかった。このまま、俺をスペインだけにして欲しかった。スペインでいっぱいであることで、弾け飛びそうだった。
骨の張り出したくびれを気に入っているスペインは、そこを何度も撫でたり掴んだり汚したり叩いたり。足首は窓枠につながれた。頚や背中は啄まれた。折れるんじゃないかってぐらい掴まれた。一回本当に手首を脱臼してしまってその尋常ない痛みで締めたところにスペインを注がれた。ちゃんと戻してもらったけれど。
スペインのが辛いんじゃないかって瞬間もあった。
表情を変えるわけじゃないし、何か言うわけでもないのだけれど、小さな生き物を可愛がろうとして手加減できなくて握りつぶしてしまった大きなガキはこういう奴を言うのかもしれない。生きながらして腐っていったじいちゃんに少し似ている。俺に吐き出すことで、それがなくなるならこれ以上嬉しいことはなかった。だから、俺も泣きながら笑っていたはずだ。
壁に手を付く姿勢で入れられて、もう足が立たないのに強制的に膝を掴まれながら、精を含んでいるのかどうかわかりにくい液が垂れた。境目が何もかも曖昧だった。
「ひぃあぁ……う、う……」
この頃には俺は言葉がしゃべれなくて、音が漏れるばかり。頭の中は、熱いどろどろでいっぱいで茹だりきっていた。
頚を舐めていたスペインは、半身をぶつけてくる。潮流が体内に入っていく。
足を伝って俺の体液や前の分と混ざり踵まで至っていく。感触は痺れか痛みかそれとも陶酔か。
脳天がじんじんになり、おかしくなると思ってるんだか、口に出しているかもわからない。ああ、今はいつだ。どのくらい経った。さっきまで俺は何してた。この後、俺は何をした。そもそもこれは今の状況なのか、それとも記憶か夢なのか。俺はずっと昔から、それこそ生まれたときからスペインと一緒にこうしていたような気もするし、この一瞬だけのような気もする。俺は目が見えてるのか。しゃべっているのか。聞こえることができているのか。答えが全然浮かばない。これまでそういう機能があったかどうかも思い出せない。
ああ。すぺいんしかない。すぺいん。すぺいん。すきだ。だいすきだすぺいん。
だから、これだけは言えた。スペインによって、ようやく生き物に戻してもらったんだ。泣き叫べる獣に。生きて交わることを追及する獣に。俺の初めてはこのスペインだと身体の根元が叫んでいた。
今まではずっと声を出さずに泣いていたのが、鳴咽できるようになった。
二足歩行まであと少し、と苦しみながら水と大地を行き来する。上げられるのもこの男で、突き落とされるのもこの男がいい。
泡に身体が変わっていくみたいだ。月に歌っているのか、太陽に喉を乾かされているかもわからない。
シチリアの昼は永い。ゆっくり動くのは、きっと空気がジャマしているからだ。ぐつぐつ湯気を吐き出す大鍋と、温まったオリーブオイルが混ざった匂いがとても似合う。小さな台所はあっという間に空気が充満して、濃密なスチームに居心地の良さを感じなくもない。
「集中できねぇ」
「なー、もっぺんしよ」
朝採りのバジルを包丁で叩いていた俺の頭に、スペインはキスを落とした。されるまで気配を感じられなかったから、ほんの少し驚いたことは秘密だ。
うなじをいじるな。くるんを舐めるな。一通りお互い気が済んだはずだし、俺たちの時間はまだまだ続くんだ。あればかりされちゃ身が持たない。
「ちぎ……俺は腹が減ったんだ。腰も痛い」
「まだ壊れてへんやろ」
「あれで壊れてないと判断できるお前が信じられねー。三日三晩もやりゃー満足しろよ」
「ちゃうちゃう。四日してて、ロマーノまる一日意識なくなっとったから五日。ちょいといたずらくらいはしたかな? なでなでーとか、ちぎーとか、ちょめちょめとか」
「うわー最低。俺が国じゃなかったら確実に死んでるな」
午後は暑くなるだろう。トマトの剪定がしたい。一番甘えて良いときに、飯さえも自分で作ってしまうのはつくづく天の邪鬼だ。いつもならスペインにやらせるのに。男は指摘どころか気付きもしないけど。
とは言え、今シエスタを始めたら確実にまたスペインが調子に乗るに決まってる。さすがにこういう抱かれ方も、二度はごめんだ。
「まあええわ。帰ればいくらでも……」
「言っとくが同居はしねーぞ」
包丁片手でもスペインは微動だにしない。だけど、声は驚いていた。最中にはどんな反応が俺に起きても動じないスペインがこんなことで驚くのはちょっと愉快だ。
「あかんの?」
「ここ引き払ってローマに戻るから、遊びに来ればいいだろう。ナポリで落ち合ってもいいし、たまにはそっちにも行ってやる」
「遠距離かー」
わしゃわしゃガキ扱いするな。まだ、余韻があるから、気持ち良くなっちまうだろコノヤロー。手元狂う!
だけど、気持ち良くしてもらうために、のこのこ行ってしまう俺を想像すると何だか一緒に住んでいるより、ずっといやらしいように思えた。弟がいないときにわざわざ呼んだり、また自分だけの家に呼び出してしまうのも似たようなもんだ。料理中だから気づかれにくいかもしれないけれど、耳の辺りが熱っぽい。
「贅沢言うな。もっと遠い奴らもいるだろーが」
「ぶーぶー。ロマーノのドケチ~」
「ケチで結構。やべ。鍋噴いてら」
お前に見合う国になりたいし、とは言えなくて「三食パスタ昼寝付きでもだめー?」と背中から唇まで触るスペインをあしらいながら、アルデンテを確認した。
「ロマーノ」
「ん?」
「何か昨日よりきれいになってへん?」
「……ありがちな口説き方だなコノヤロー」
言ってやったけれど、麺を指で潰しながら、スペインの爪を吸う。舌先を丸く動かす。口を侵されながらも、俺の手は淀みなく動いて、フライパンで炒めた野菜とパスタを合わせた。
fin
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