後悔先立たずとはよく言ったものだが、小さな笛を人形に構えさせながら日本はため息をついた。
日本は現在一人暮らしである。男の一人暮らしなのだから、正月や節分はそこそここなしても、ひなまつりまでは手は回らない。
かつて手放してしまったこともあって、飾り雛はご近所の娘さんがとうに嫁に行ってしまって、孫も男ばかりという老夫婦のところから借りて来た。飾られるほうが雛様も喜ぶと言ってもらえたことがせめてものさいわいだった。
爺ぃ一人の家で雛人形飾るのってどうなんですか、と客人に言いたかったが、相手は伝統行事の機微なんてわからない北の大国。ため息をつくしかなかった。
「あ……その日は、我が国の伝統行事がありまして……」
「日本の伝統行事? 楽しそうだね。僕も行きたいな」
「それが……女の子のお祭りなんですよ」
そのとき、心の中で死亡フラグ回避!と万歳三唱していた自分が恥ずかしい。ポーカーフェイスを気取っただけになおさら恥ずかしい。
ロシアが連れてきたのは姉妹二人だった。
にっこにこの彼は玄関を土足で上がろうとして、それを止めるのが難儀だった。何度か我が家にも来てるのに、いい加減覚えて欲しいものだと日本は思うが、ロシア以上に頻繁に来る太平洋の向こう側のKYも、まったく靴を脱ごうとしないので、案外犬猿の仲の二人は似た者同士だった。
「何度か顔は見てるだろうけれど、こっちは僕の姉さん、ウクライナだよ。こっちは妹のベラルーシ」
たまにハンガリーや台湾ぐらいしか来ることがない自宅に女性、それも二人来るなんて!と日本は押し切られた訪問ではあったものの、少しだけ血圧が上がった気がした。
これはあとで血液サラサラ効果のある納豆を食べなくてはいけませんね。思いっきりテレビで昨日思いっきりみ○さんがおっしゃってましたから。
シナティでない本家本物オリジナルキャラが描かれたピンクのスリッパを2セットと、嫌がらせにロシアには中国製のシナティスリッパを勧めながら靴を脱がさせた。ロシアは、中国を気に入っているからか、それともオリジナルとシナティの区別がまったくつかないのか、笑顔は変わらなかった。
「日本さんっ!」
「はい?」
「こんな可愛いものを踏みつけちゃってごめんなさいごめんなさい。私たちが裸足だと床が汚れちゃうからですよね?はぁああうぅうううぁああああ!!ごめんなさぁあああいっ!!」
「ちょっと落ち着いて!落ち着いて下さい!!」
「……これは警戒色だ」
「は?」
「兄さんに毒でも盛るつもりか!! この●●が×××の□□□□がぁああ!!」
白人超ナイスバディ&スレンダーさながら人形のような美人二人キタ―――!という幻想は3秒で崩れていった。
姉妹二人を、言葉を悪く言えばぶちのめした日本にロシアはちらし寿司をスプーンでほおばりながら、このピンクの散ったの甘くておいしいねとか感想を続けた。
「……日本君の、そこでとっさに当て身で気絶させちゃうとこ、僕好きだよ」
「お恥ずかしい限りで……。それは桜でんぶです」
天然のウクライナは暴走するたびに身体のあちこちがひっかかり日本の自宅を破壊するし、疑り深いベラルーシはここにきっと盗聴器がここにきっと監視カメラがとやっぱり日本の自宅を破壊した。
隙間風が骨身にこたえて、あたたかいものと言えば、現在日本が口に含んでいるハマグリの吸い物ぐらいだった。イノシン酸、グルタミン酸ありがとうありがとう。
「じゃあ、僕はそろそろ」
この二人を置いていくのかと顔に出さないように「お帰りですか」と聞いた。
ロシアはマフラーを巻きなおした。
「あのね。ずっと日本君のところに行きたかったみたいなんだよ。僕には言ってくれなかったけどね。だから、多分、僕のいない方が素直にお礼とか言えるんじゃないかな」
大柄な男はそれに似あわず、静かに戸を閉めた。
ぼんぼりの灯が二対の細い首を淡く照らした。毛布をかけられて横にされた身体は、生きものがどうやって生きていけばいいのか戸惑っている白銀の地と、コンクリートで封じられた廃墟を思わせた。
日本は食卓に、雛あられと流し雛が入った包みを三つ置いた。
それは祈りにも似た、懺悔にも似た、春の遠い地にて、少しでも再生のために雛に込められて流してほしいとだけ、この二人が起きたら土産に渡すつもりだった。
礼など言わせてなるものかと、私も何一つ返し切れていないのだからと。
桃の花が早く咲かないものか、こんなに白い肌にはきっとあの薄紅のそうだ揃えの紬でもさしあげようか、どうせ箪笥の肥やしなのだ。
彼女たちが起きる前に処分しなければならないと気づき頬張った、真っ青なヨモギの餅を噛みしめたが、それは、ただひたすら苦かった。
しかし、餡でごまかすこともしたくなかった。
fin
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