世界一華やかな街の中心は、意外なほど小さい。
少し前まで騒音問題から、夜はトイレを流すのを我慢しなくちゃいけないくらいのこの小さな島が中心であり源だった。今でも、クーラー工事ができず、ここ数年のあの海の向こうのメタボが原因の温暖化による猛暑にあっても必死に耐える日々だ。
もっとも、そんな不便さなんて、この栄えある島に住める権限に比べれば大したことじゃないし、そもそもフランシス・ボヌフォアは、夜中にバスルームの必要がある時は、大抵相手方かホテルを使う主義だった。
逢瀬の翌朝でも、そうでなくともこの川縁で迎える朝は水面から立ち上る涼しさだけで、目が覚めていく。アパルトマンの門を出たフランシスは、チェーンの鍵をいそいそ外した。
フランシスが生まれる前から集落を有していたこの島の歴史は古い。
中心には、バラ窓のステンドグラスがそれはそれは届かない花弁を思わせる大聖堂がある。観光客のほとんどはこの「我らが貴婦人」が目当てだ。大体は、正面で写真を撮り、中に入ってため息をつきながら光と色ガラスの芸術を見上げ、絵葉書や安いロザリオを買って行く。バルコニーには、長年雨風に打たれたブロンズの聖人たちやガーゴイルが、祈りを捧げない金づるにも息吹を恵んでいた。そのスタンスは、欧州では中くらいの信心深さであるフランシスとしても歓迎していた。
フランシスのお気に入りは大聖堂より一回り小さい、ミサやコンサートにも行くゴシック建築の針糸のようなステンドグラスを有する教会だった。アパルトマンの窓の一番近くにある。高さこそはないが、川あの湿りが上る窓は、大昔ならここから船でやってきた騎士が令嬢を連れ去るか、もしくは船でやってきた高級娼婦を召し上げるのに使っていそうな出入り口を兼ねていただろうとフランシスは思う。景色だけでシャンパンが飲め、箱入りの混ぜワインさえもそこそこに演出してくれるから不思議なものだ。
向かいには、かつて市の牢獄と恐れられた元宮殿が、常に早朝の気配を漂わせて水面に影を映していた。しかし、この牢獄とギロチンの間に存在した枷を付けられた足音が、この島の名前の元となる「市民」という概念を創り上げたことをフランシスはよく認識していた。
このスタート地点から始まる空気の流れを楽しむのに必要なのは、海峡の向こうの眉毛が乗るずんぐりとした黒塗りの鉄製芋虫でもなければ、海洋の向こうのメタボが乗るけばけばしい煙を吐き散らす走る地球破壊兵器でもない。人力で風を切る自転車だ。馬鹿には見えないマイヨ・ジョーヌを身にまとい、気分はすっかりツールの優勝選手。アントーニョの家からピレネーを超えてやってくる競走馬よりしなやかな太ももと言ったら!
雄鶏のマークが入ったヘアバンドで髪を上げれば、視界も良い。冬の冷気だけが額にかかるが、それも性格がきつい氷の女王のペーゼと考えればもうけものだ。
フランシスはこの島をとても愛しているが、サドルに跨り、この島から橋を渡って仕事場に行く時間も、橋からこの島を眺める一連のパノラマも大変好んでいた。毎日、何かが違っていた。
例えば、ほとんどこの街の象徴となっている鉄塔や、二つの凱旋門――片方は一番喧嘩がうまかった上司が作れと言ったはいいものの、本人は出来上がる前に失脚してしまい、もう一方のやたらモダンな門と言う名のビルは、できてまだ数十年しか経っていないだけに甚だ不評だったりする、などの新しい建築物たちは、しかし、時間が経つにつれ当り前の風景になりつつあった。
河の中州にあるこの島からは、右岸の高級ホテルも、左岸のプチ・ホテルも気軽に行ける。
最短距離を選ぶなら右岸の道を行くところだ。 かつて宮殿だった巨大な美術館の中央に鎮座するガラス製のピラミッドを横切り、閉店中もディスプレイで芸術性をアピールするブランド通りを疾走するのもうきうきする気分を十分味あわせるに足るが、何せそこは気の赴くままハンドルを向けたいまま。
しかし、左岸の学生街の瑞々しい匂いに釣られたフランシスはハンドルを南に切った。
かつて名前を拝借した目抜き通りを抜けていく。偽名で遊んだあの時期もはるか遠くなった。サンジェルマン、という単語を目にするたびに、思わずニヨニヨほくそ笑む。
マドレーヌを紙コップに入った紅茶に浸して食べている若者たちを尻目に、自転車は追い抜いて行く。
いくつかのお気に入りの中でも、一番良く行くカフェが見えてきた。朝食はここにしよう。好みではあったが結局抱くことはなかったギャルソンが麻のテーブルクロスを整えていた。ボンジュール、ムシュー。
白髪を撫でつけた彼は、何も言わずとも、寒さに甘味が欲しい季節になるころにはショコラを、舌が乾きやすい日差しが早くから赤いひさしから入り込む時期はピンクレモネードを出してくれた。もちろん、基本は本日の自信があるお勧めのカフェで、本日の逸品はコートジボワールの浜辺で遊ぶ少年たちの足首のように舌の上で撥ねた。
一口飲んだ後にフランシスは食事を決める。合わせるなら、クロワッサンよりバゲット。敢えてサンドイッチにせず、マッシュルームとオニオンのクリームスープに、野菜と白レバーのパテだけ添えてもらった。そうした融通も利くところが、お気に入りの理由でもあった。
腹ごなしが済めば、今日は市場の日だということに気づいた。少し遠回りする。数十分遅刻してしまうが、市場で買った品物で食事を作れば許して貰えるだろう。
グラジオラスとカラーの切り花に、鋏を乱暴に振り回していた手長エビ、たまにしか出ない幻のフロマージュ・ブラン、砂漠を越えてやってきたしまりの良いピスタチオに、肉厚のアーティチョークに、日本の渓流の匂いにも似たエシャロット……戦利品が入ったエコバックをほくほくと籠に揺らしながら、車軸は8区の流麗な門にようやく到着する。守衛も慣れたもので、通用口をすかさず開けてくれた。
世界一華やかな国の中心は、意外なほどささやかな充実に満ちている。
fin
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