空からオオカミの遠吠えが聞こえた。場所は、反響のためどこからかわからない。
隣を歩くイギリスのブーツは革製だった。縁には茶色い毛皮が着いている。濡れたら役に立たなくなるし、エアクッションもないからマメも防止できないというのに。おろしたての頃はあったかかったかもしれないけれど、今はいくらでも保温材料が手に入るのだ。トレッキング用のスパイク付スニーカーを、ウォールマートの靴売り場で買えばいいっていうのに。熱湯の入ったケトルを落としても丈夫な靴だ。よっぽど機能的だろう。
「お、アメリカ。こことかどうだ」
森のけもの道が拓けて、小じんまりした湖があった。だけど、足元にはきちんと多年草があるから、増水が地面に押し寄せてくることはないだろう。
ひとまず深呼吸してみる。グリズリーの匂いはしない。まあ、近くにいたとしても、カナダが相棒の白クマの毛皮を編み込んで作ってくれたドリームキャッチャーを背嚢からぶら下げている。クマ避けには、これが一番らしい。似た種からの敵意ある匂いに動物は敏感だ。この公園の動物は、野性味豊かで嗅覚も発達しているだろうから、安心して良いだろう。万が一来たとしても、世界のヒーローと、元ヤンキーの海賊だ。どうにかなる、というか、することとしたら、死なせてしまわないように気を付けなきゃいけない方の心配ぐらいだろうか。
湖の向うには、雪が滲んだ山が青く浮かび、湖面に双子のそれが逆立ちしていた。あちら側のふもとは、やや湖も黄緑がかっていて、ぼんやり湯気が出ている。薪は禁止されているから、間欠泉かもしれない。湧いては静まり、静まってはまた湧くをずっと続けている。この地球の見える吐息だ。
絶景、と言って差支えないだろう。
そんな景色がこの地には、たくさんある。
俺はそれに感動をするほど子どもじゃないけど、イギリスのように懐かしさを感じるほど老成してはいないので、同意した。
「君にしては、悪くない立地選択だね」
割れた滝、熱湯の池、赤い泉。ある人は奇跡と呼び、ある人は当たり前が永くあるだけと呼んだ。
3つの州にまたがる大地は、千年前からその姿を変えることがない。
鉄イオンで黄色く染まった川から名をとったその地は、火と硫黄を感じさせる蒸気や熱や土の色から、地獄とも呼ばれた。
だがどうだ。
こんなにもスパイク越しに地球の心音を伝える場所は、ここを含めて数か所しかない。
一部の地殻が壊れたら、マグマから大量のガスが吹き出して気候さえも変わってしまうであろう、世界一豊かな核倉庫だ。
幼い頃の俺は、イギリスたちヨーロッパ人種とよく似たアングロサクソン系の顔立ちをしていたが、入植の前から住んでいたネイティブアメリカンたちの先祖は、俺どころかイギリスも存在しないほど昔からここに定住していたらしい。万、という単位を浮かべて、その気の遠くなるような長さを思う。千年だって相当な長さだっていうのに、一万年あれば、七つの海を満たすほどのバニラシェークが飲めそうだ。
バックパックを降ろしたイギリスは、分厚い本と指揮棒の先っちょに金色の星を付けたステッキを取りだして、夏の終わりの高山植物が並ぶ花畑にスキップを始めた。一体、何が目的なのか、聞きたいような聞きたくないような。
「保護区域内からは、小石一つ持って帰っちゃいけないんだぞ」
「わ~ってるって! 魔法で写し絵を取るだけだ」
「日本製のデジカメがあるじゃないか」
「流石に匂いまでは再現できないだろ!」
帰ったら日本に、五感を再現できるデジカメを開発してくれないか相談しようそうしよう。人の心が読める双眼鏡ができたんだ。そのくらい、彼ならやってくれると信じることにする。
気を取りなして、防水性のシートの穴にロープを通し始めた。もやい結びを二回。念入りに結ぶ。本来は、自動車に積んで来るほどの重量があるテントだったけど、今回俺はダイエットのため、自分で背負って乗ってくることにした。登山用と違って重い分、居住性はそこそこ優れている真っ青なテントだ。テレビ通販でも、お得と宣伝して、すぐに電話で注文した奴だ。
杭を地面に打って、今日は部下がいないことがいいことに、ハンマーの代わりに思いっきり踏みつけて固定した。足をちりちりする衝撃が、ゲームで敵を踏みつけるみたいで結構楽しい。そして、さっきのロープをそこに結わえつけて、最後にポールを組み立てた。
「悪いな。今、俺が火を起こすから」
そう言って、さっきのステッキを振りかざした。何だか、見てはいけないものを見るような気がしたので、俺はポールの角度を調節する作業に没頭することにした。
来るのは久しぶりだった。多分、映画のロケでライトセイバーを振り回して以来。
ここは、どうしたって不自由な子供時代を思い出させるし、色々勝手が出来ないから、ちょっと前まであまり好きじゃなかった。
本来、キャンプをしていけはいけない、深い保護区域での許可が出たのは、俺たちが国家で「人が踏み込んじゃいけないなら、人じゃない存在ならオーケーだろ?」という不敗の敏腕弁護士も真っ青な俺の主張のおかげだった。とは言え、許可を出した上司たちも上司たちで、中の植物を傷つけてはいけないだの、食べ物のついた皿を洗ってはいけないだの、小石で水切りをしちゃいけないだの、ハンバーガーはおやつに入らないだの細々とした注文を、数キロバイトの資料でプリントアウトしてきた。
同行者であるイギリスは、出発計画を練っていた俺が頭の上に乗せて、その重みにうんざりしていたファイルをひょいと持って、パラパラアニメを見る生徒のように一通り目を通した後に、どうにかできそうだな、と一言言った。
うん、君のどうにかできる、っていうのは大抵常識外の行動だってこと、俺はよく知っているよ。
軍用のレーションをかじり、金属製のマグでイギリスは持参のやっぱり軍用のティーバッグ、俺はインスタントコーヒーを飲んだ。
「スコーンを持ち込めたら良かったんだけどな」
「うちの動植物を、匂いだけで絶滅させないためだからね」
「言ってみただけだ、ばか」
呪いをかけるような歌を鼻歌で鳴らそうとするイギリスを引きとめて、ハンバーガーもシェークもポテトもマシュマロもチョコレートもないけれど、あったかい物は少しだけ、心が落ち着く。
湖は、夜の風に吹かれさざ波が立った。黄色い小さな花は、夜になって頭を垂れていた。明日も咲いているかどうかはわからないけれど、多分来年はまた咲く。
そうやって景色を眺めると、会話が途切れてしまう。同じように湖を見ていたイギリスは、そっちとマグと俺とを交互に見やった後、ようやく口を開いた。
「アメリカ」
「何だい」
「靴、脱いで見せろ」
「嫌だね」
「やっぱりそう言うと思った。だからずっと言わなかったけど、言っておくけどお前のためじゃないんだからな。同行者の俺の責任問題とかあるから、俺のためであって……」
ここで、見せなかったら、このままくどくど説教が始まるなら、せっかくのキャンプが台無しだ。しょうがないので俺は自慢のスニーカーを出した。靴下もつま先から引っ張って脱いでしまって、地面に投げた。
土の感触が指にくっつく。裸足でビーチならともかく、土の地面に立つなんて百年ぶりくらいかもしれない。
「……やっぱり火傷になってら」
俺としては、デッドストックのプレミアがついてもおかしくない靴が、まあ売るつもりもないので、このくらいの変化は気にしない方向には気を向けられるものの、でろでろになったことのが悔しいんだぞ。
でも、イギリスは自分が怪我したみたいに、目に涙をため始めて。
おかしいな。まだ、彼は一滴も今日は呑んでないはずだっていうのに。
空気に含まれるわずかな硫黄臭で、パブったんだろうか。いやそんな馬鹿な。
「大したことないよ」
「薬やるから塗っておけ」
「やーなこった」
大体、どんな薬だか知れたもんじゃない。涙で俺に訴えるんなんて、そんなんじゃ、ヒーローはほだされないんだぞ。
イギリスは、湖よりも揺れる緑の目で、俺の脚を見た。
ひ、ヒーローはほだされないんだぞ。
イギリスは、洪水するかもってぐらいの涙を浮かべて、俺の足まで水がかかるかってくらい……。
薬草臭い塗り薬を足に適当に撫でつけている俺に、紅茶を入れなおしたイギリスが、ケトルから入れてきた。だから、その味、よくわかんなくて嫌なんだってば。でも、もうインスタントコーヒーの粉は切れてしまったから、仕方ない。
「何で、間欠泉で死んでたオオカミを拾った。しかも、特に墓を作るわけでもなし」
「埋めたら、他の動物が食べられないじゃないか」
「あそこが熱いってこと、お前はわかってただろう。俺たちだって痛点くらいはあるのに」
「君が役にも立たない貴族院を、討論の場として残しているのと同じような理由さ」
そうして、いつの間にミルクと砂糖が入っている紅茶をすすった。俺が昔好んだ味。今も嫌いじゃないけれど、イギリスの前では、自分から飲みたいとは言えない味。
黒い毛皮はすでに変色していた。
俺は、走り込んでこぼれ球を狙うライスボウルの選手の如く、塊を拾い上げた。地面の微細な揺れが一瞬おこり、白い粉が爆発するように空へ噴く。
テキサスが曇ったが、夢中で走った。
そのまま、森の中に地熱の分だけ、わずかに温まっていた塊を捨てた。荷物よりも軽い。これが、魂のない重さかもしれない。
イギリスは何も言わなかった。
黙ってしまったイギリスは、湖にひたしたハンカチを俺の足に乗せた。食べ物のかすが付くわけではないので、このぐらいの水利用は許されるだろう。
「イギリスだって、あの場所ですぐ俺に駆け寄って、おろおろするかと思ったけど、少しはマシになったんじゃないかい」
「お前は昔から、どんなに動物と仲良くなっても墓を作らない子どもだったから、ようやく理由を聞けたってだけだ」
「それが自然だからさ。ここでは、山火事が起きても消火はしないんだぞ。そこから新しく芽吹くことでここは何千年も活動してきたから」
やさしくない公園と対比するかのような味を、誰よりも厳しい人が作り出す不思議が、この空間には満ちている。
火傷の痛みは、薬が効いたのか、外気で冷えたからか、少し和らいだ。
「アメリカ」
「ん」
「お前、大人になったな」
「いきなり何だい」
「前だったら、俺をこんな昔を思い出させるような辺境の地に連れてこなかっただろ。俺の前で、昔みたく野性動物に触ったりしなかっただろ。素直に紅茶を飲んだりしなかっただろうし……」
「それって何だか、子どもっぽいて言われているみたいだぞ」
「子どもらしい振る舞いに抵抗がなくなるのが大人の証拠だばか」
なるほど、だからイギリスは、大人げないのか。言われてみれば、日本も中国もフランスも、年寄り連中は総じて大人げない。
大人か。
他でもないイギリスに言われるのは、くすぐったい。
言われてみれば、アイスを食べてないのに今日はくしゃみが起こらないし、ゲームをする気も、ホラーDVDを見る気も起らない。
生まれた頃ずっと見ていたのと同じ空、同じことしかできないくらいの非文明的な世界。
それなら、ここでしかできないことを体験するしかないのだ。
「俺はただ……」
それは、ほんの少しだけ本音を漏らすこと。誰もいないことをいいことに。
ヒーローは観客がいるからヒーロー足らしめんとする。
なら、観客がいない今、少し痛む足を休めてもいいかもしれない。だってここには、一人称たる俺と、二人称たる君しかいないんだから。
それでも、言葉に出すのは、うっかり足だけじゃなくて別の部分も火傷しているんじゃないかってほど、火照った。日が早くなっていて良かった。こんな顔色、イギリスには見せられない。
「ただ、君と朝日が見たいなと思っただけだよ」
いつも早く寝てしまって、朝起きたらいなくなっていた君。
独立後、いなくなってしまって毎朝会えなくなった君。
俺を大人になったと評したことを撤回させるものか、大人げない大人な君に近づけさせたのは、ほかならぬ君なのだから。
星がまわって、君がほほ笑んで、少しだけ近づく。
fin
PR
COMMENT