オーストリアの朝は、一杯のコーヒーで始まる。
濃いめのエスプレッソに、温かいミルクを入れて、上にスチームミルクの泡を乗せた、定番のメランジェと呼ばれるコーヒーだ。この泡部分を、オーストリアは自ら銀製の泡だて筒にて作成する。機械で作った味も、悪くないのだが、こうして自分で作れると言うのに家電製品をわざわざ買うのがもったいないためだ。
『愚直な人』を意味する絵柄の由緒正しい磁器より、立ち上って行く黒い甘露の湯気を受けつつ、流石にコーヒーを飲みながらの演奏は不可能であるため、レコードからの立体的でない音響ではあったが最新式の装置に負けないピアノ五重奏が流れていた。オーストリアも一人では五台の演奏は無理であるため、レコードを聴く場合、多重奏を好んだのだ。
当時22歳の歌曲の偉人が作った名曲は、朝の泉のせせらぎを思わせて、古典的ではあるがいつ聞いても飽きない。現れては消え、沈んでは跳ねる川魚たちが目の前に浮かぶようだった。
しかし、朝のひと時は、彼の屈強なる弟分にて破られた。先日、模様替えをしていなかったら、ドアノブが貴重なコレクションが詰まったレコード棚に半分めり込んでいたことだろう。
「何ですか、ドイツ。騒々しい」
大股でドイツはメランジェの入ったコーヒーカップを奪い、一気にあおった。そんな風に飲むものではないのですよ、しかも立ったままとはお行儀が悪いと一時間は説教をしたいところではあるが、基本的に真面目で律義なこの青年が、こんな狼藉を働くには何か理由があるのかもしれないと、オーストリアは、最後の一滴までメランジェが飲み干されるまで待ってやることにした。
うまい、と一言言ったドイツはそこでようやく落ち着いたらしい。意味ある言葉をようやく吐いた。
「兄さんが女性だった……」
オーストリアは、もう一杯メランジェがあったら、この顔にぶっかけるのに、と二杯用意してなかったことを後悔した。
「何を今更」
「驚かないのか? あの、誰よりも勇ましい国家が女性なんだぞ!」
「ドイツ。それは女性に対して失礼というものですよ。女性と言う存在は、いつだって我々より強く尊いものです。少なくとも私はハンガリーに対してそのように思っております。そして、私は驚いていないとは言ってませんよ。貴方がまったく自覚していなかったということに驚きです」
そうなのだ。
プロイセンという国家は、実に鷹揚で、戦場で自分が傷つければ平気で素肌を蒸留酒で消毒するし、味方に傷ついた兵がいればすぐさま自分の服をちぎって手早く止血してしまう。よって、彼女が女性であることは、一度戦えばほとんどの国家が知っていた。無論、仇敵でもあり幼馴染でもあるオーストリアは言うまでもない。
たびたび、周囲から女性だと指摘を受けていたが、その度にプロイセンは相手を伸していたため、コンプレックスではあったかもしれない。だから、庇護者であるドイツには隠したかった、という考えは浮かんだ。
「貴方は、あの人に幼いころから育てられているでしょうから、裸体だって見なれているでしょうに」
「これは、心臓を守るために発達したすんごい胸筋だとか、男性器は急所だから敵からの攻撃が来ても大丈夫なように体内にしまってあると説明されてきたんだ。だから俺は、愛するあの人がそう言っているのだから、と今まで他人に女性だと言われても、断固として否定して続けて来て、欲望もひた隠しにしてきたわけであって」
流石、合理性さえ保たれれば、納得してしまう国家なだけはある。融通の利かなさは折り紙つきだ。
おまけに、あのプロイセンは、人を騙すことにかけては天才的だということを、オーストリアはよく知っていた。しかし、これほどまで長く効果があったとは……。
混乱のあまり、ドイツは色々なものがだだ漏れになっている。正直、聞きたくない気持ちも湧きあがりながら、オーストリアは苦虫を瞼で潰すかのように目を閉じて、こめかみに指をあてた。
「……プロイセン本人は、謝りましたか」
「いや、兄……姉さんは、部屋から出てこない」
オーストリアは、怒りをプロコフィエフで表現したくなった。
日本製の扇が、青い縁を揺らしながら、その柄はごつい男が握っている。おそらく、こんな用途に使っていると知ったら、贈った東洋の島国はいつも浮かべているとりとめのない微笑を歪めるであろうということは、オーストリアには予想できた。メッテルニヒを窓から放りだした妃が愛した柄もこんな情けないことに、と実に忍びないが、少なくともドイツにとっては緊急事態らしい。
「さーて、姉さん。オーストリア特製のうまいザッハートルテだぞ。リンツァートルテもある。もちろん、最高級コーヒー付きだ。コピ・ルアックだったか」
「あんな下品な方法で収穫している豆なんて使いませんよ、お馬鹿さん。まだ無名ですが、コスタリカからの信頼できる筋です。あの地域の中では珍しく搾取とは縁遠い、のんびり作られたオーガニックの。当然、味は世界一」
ジャコウネコの糞から取れる豆を使ったコーヒーは、フランスなどからは賛美されているが、どちらかと言えば、温和な味を好むオーストリアの口には合わなかったのである。
「だそうだ! というわけで、出てこい!!」
「……本当にこんなんで出てきますかね」
「お前は、自分の菓子とコーヒーに自信がないのか?」
「ありますけど、いくら食い意地の張っているプロイセンとは言え……。それに、貴方だってかなりの実力じゃないですか」
「悪いが、冷静でない俺が今クーヘンを焼いたら、イギリス並の出来になること請け合いだ。美味しいクーヘンには、正確な計量と時間配分が必要だということぐらいお前も知っているだろう」
はたりはたり。
扇がプロイセンの自室の扉へはためく。不毛な時間だ。せっかくのコーヒーだって冷めてしまうだろう。
大男の肩をオーストリアはそっと叩き、指を自らの唇に近付けて、静寂を促す。怪訝な顔を向けられたが気には留めない。
そのまま、扉に耳を近づけた。向こうからは居間のテレビの音が微かにした。プロイセンの自室にはテレビはないはず。
鬼のように向こうを睨みつけるドイツを尻目に、コーヒーを入れなおしてきましょうと、オーストリアは居間に戻った。
プロイセンが残ったトルテを思いっきり頬張っていた。
野生児が慌ててワイン置き場の地下室に潜ることをとっ捕まえることは簡単だった。統一後すぐのか弱い女を、ねじ伏せることなど、今なら容易い。
「まったく、姉弟揃って立ち食いがご趣味とはお下品な」
「うっせー! てめぇは、いちいち人んちに首突っ込んでくるな!」
「どうにかして欲しいと頼まれて来たのはこちらですよ。このスットコお馬鹿」
ほとんどホールのトルテを、手づかみで食べている存在に与える余計なコーヒーはない。
オーストリアはようやく朝のメランジェの代わりにありつくことにした。音楽も情緒もへったくれもない中、良好とはいえない相手を眼前にしてだったので、味はだいぶ落ちてしまっていたが、コーヒーに罪はない。
しかも、カップはドイツとっておきの最高級マイセンだ。自分のところの窯ではなく、むしろこの憎らしい相手に近い窯であるので大っぴらには手に入れることは憚れたが、美しいものは美しいと認めるぐらいの分別はオーストリアにはあった。
「思ったより、痩せてませんね」
「お前と最後に会ったのは、こないだの戦争に負けた直後だったろう。あん時と比べれば、誰だって太って然りだ。外に出て剣を振ったりしなかったせいか、乳や尻が張ってしょうがねぇ」
「貴方はどうやって自覚したんですか」
「あ? うん、まあ、ロシアに女にされたって言えばいいか」
オーストリアは、せっかくの最高級コーヒーを半分以上噴出した。
血で汚れた下着を最初に見つけたのは、ロシアだったらしい。衣類も彼に管理されていたプロイセンにとっては、仕方がないことだった。
「プロイセンくん~、生理中の下着ぐらい自分で洗いなよ~」
「……生理って何だ?」
流石のロシアも、冬将軍がいる時より肝が冷えたと、プロイセンに後述している。もっとも、その時は表情一つ変えなかったそうだが。
汚れているのは、気付かないうちにどっかで怪我をしていたのだと勝手に一人で納得していたプロイセンは、ロシアの手による可愛い絵本や部下がちまちま作ったやっぱり寓話的なアニメーションを使っての指導で徐々に知ることになる。長年の勘違いを。
「女の人は大変だよね。ぼく、お姉ちゃんも妹もあるから必要なものもわかるよ」
というわけで、脱脂綿やら、頭痛腹痛を軽くするハーブやら調達してもらってしのいできた、というわけだ。経済的要因が原因でなければ、人間と同じ薬でも効くらしい。
「お前は、俺が女だって知ってたんだろ? なのに何で、くん付のままだし、服も一応男物だし」
「……ぼくが、君に女物の服をプレゼントしたり、プロイセンさんとか、プロイセンちゃんとか呼んだり、あの妹の前でできると思う?」
「俺が悪かった」
社会主義は、男女同権が強いからだろうか、とオーストリアはプロイセンの話を聞きながらぼんやり思った。
そして、ロシアにはわざわざ姉を兄だと妄信している男に、事実を教えてやるようなサービスのない国家だ。ドイツの勘違いは、統一に至る今日まで、プロイセンの接触がないままであれば、継続していてもしょうがない。
「で、俺が風呂入っているときにドイツが平然と新しい石鹸とタオルと着替えを持ってやってきたから、俺は女だから、もう裸見ちゃダメだぞ、と忠告したら、突然真っ赤になって、息荒くなって、近づいてきて……。そりゃ逃げるだろ? 逃げるのが普通だろ?」
「なるほど、免疫がない分、敬愛している存在が女性とわかった途端、一気に弾けたわけですね。しかし、あのドイツからよく逃げ延びましたね」
「オヤジから受け継いだフルートで殴った」
かわいそうなフルート!
いや、かわいそうなのはドイツなのか。
まあ貞操を守るためなら正当防衛だろう。女性に無理やりというのは、美しくないことはオーストリアが一番良く知っていた。
入れなおしたコーヒーは、柔らかい湯気を上げている。口では辛辣なことを言っても、今はか弱い乙女であるプロイセンにも、仕方なく淹れてやった。プロイセンは、味わいもせず、ガンガンに砂糖を入れて飲みこんでいく。
まったく情緒もへったくれもない。
「俺だって、水シャワーだったのに、身体が熱くなっていくし、何か……ヘンな感じなんだ。ヴェストの顔次見たら、多分俺ヘンになっちまう。だから逃げるしかねぇ」
思い出したのか、コーヒーより勢いよくプロイセンの頭から湯気が出始めた。
面白い。実に面白い現象だ。
「貴方、ドイツのこと愛してるのですか」
「そりゃ、何食っても何見てもヴェストと一緒がいいな、と三百年は思ってきた相手だぜ? つか、だからこそ、俺様がヘンになっちまうところなんて見せたくねーっつーの! 何かもう胸の奥がすんげー動くし、下っ腹もうずうずするし、こんな状態で、ウクライナやベラルーシに教わったようなことをされたら、俺しぬ。絶対しぬ。頭おかしくなってしぬ」
「オーストリア。やっぱり、姉さんは出てこな……」
扇とトルテ皿を持って戻ったドイツは、それを床に落とした。わなわなと、姉に両手を向ける。
「姉さん……!」
「来るなヴェスト~~!!」
真っ赤になったプロイセンが逃げ出す。本気なだけに逃げ足は速い。ドイツは重戦車のように追いかけまわす。
振動で、オーストリアが半分も飲んでなかったコーヒーはひっくり返った。
「貴方たち兄弟は、国土を今は共有していますからね。片方が欲情すれば、もう片方も……いや、こういう分析に意味がないということぐらい、私だってわかりますよ。ええ。野暮とは言われたくありませんからね」
発情期の動物みたいな姉弟だと思いつつ、似たもの同士だからつがいになるにはぴったりだと、結婚成立仲立ちには定評のある貴族は、早くゆっくりコーヒーが飲みたいと願いつつ、マホガニーのテーブルから席を立った。
ヨハン・シュトラウスの喜劇の名盤を自宅でかけつつ、早く特製メランジェにありつくべきだ。
国の恋路を邪魔するものは、じゃじゃ馬に蹴られてしまうだろうから。
fin
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