灯りの消えた二階の窓は、水の流れる縞模様を縦に刻んでいた。兄の部屋だ。泣いているようにも見える窓に、思わず共感する。
大寒波に襲われているのは、ベルリン郊外のこの地も例外ではなく、3日ぶりに対面を果たしたガレージの前は分厚い雪の壁が出来ていた。中では兄の自慢でる骨董品のトラバントはちまっと、自分の愛用のワーゲンはやや窮屈に鎮座しているに違いない。
空港への往復に自分の車を持ち出さなかったのは正しい判断だった。これから雪かきをしてガレージに車を入れるより、多少面倒ではあるものの、空港からバスを使って市内に出て、そこから地下鉄を乗り換えて、自宅まで歩くほうが近所への迷惑は少ないのだ。空港から部下に車で送らせるのは忍びない時間帯、住宅街はひっそりとしていた。モノトーンの雪のせいで、街灯もかつてのガス灯のように揺らいでいる。予算やら世界中のゴタゴタに影響された度重なる延期の末に、もうすぐ完成する新しい空港はもっと効率的なアクセスにしようと心に誓った。
除雪車の通ったタイヤの跡に、冬用の革靴がぐしゃりと沈む。キャタピラーの後ろを辿った永久凍土よりはましとはいえ、足取りは軽くは無い。
真夜中でもくぐもった灰色の空は、統一前の一人の夜とよく似ていた。雪が降り尽くされた後の空は、水分を失い、星の光までも乾いて直線的に見える。それを美しいと感じられる余裕の有無で、見つめる長さは変わるだろう。
一番見つめていた時間である天文学の講義の教師は兄だった。
普段、馬で走り回ってばかりの人が、そういうときばかりは薪も最小限のじっと待つ観測が中心で、あれはこと座のベガ、あっちはわし座のアルタイル、俺様のように格好いい星座だぜ、と手袋の指が射す先を見て、何度声をあげたことか。
玄関まで腰で雪をかきわける短い行軍の末、扉前のひさしから、武器になりそうなほど巨大な氷柱を破壊すると、ナトリウムランプ風のLEDがセンサーで自動点灯した。この寒さで外側を覆う真鍮ごと縮んで歪みそうな鍵穴に、シュタイフの小さなテディベアのキーホルダを揺らして中に入れば、犬のいない家は匂いからして違うことをあらためて確認できた。
アナログとデジタルの手帳をつき合わせて予定を確かめたのは、数週間前のこと。メモは当然取ったが、ここ最近はメールの返信が来ない。理由は食卓の上から推察できる。
バラ石鹸、ピンクのバスソルト、煮立されて色は失われたがその分香りが凝縮しているに違いない瓶詰めの花のジャム。なるほど、今回の出張はブルガリアか。オイル入りの小瓶やはちみつがあれば、色々使えたが、相手がいなければ意味も無い。それとも、最初から使われることを予想してあえて買っていないのかもしれない。
見事なまでに、出張と帰宅はすれ違いになり、その間互いに世界中をかけまわる。欧州不況で、倍に増えた仕事は、その分兄の負担も増やした。
トパーズという商品名のジェラルミンスーツケースは、自分が70年以上愛用している会社のもので、統一後、新型モデルが出ていたのをプレゼントしたものなのだが、ウォークインクローゼットからそれを取り出し、鼻歌を鳴らしながらパジャマやサングラスや水着やらを詰めていた姿は負担と呼ぶには語弊があるだろうか。
メールが来ないのも、案外仕事にかこつけて満喫しているのかもしれない。きっと、そうに決まっている。予定では、明後日に帰ってくるはずだった。
先に戻ってしまった自分が少し悔しい。その立場としては、雪かきをして、たまった埃やもろもろを片付けておいてやらざるを得ないのだ。嫌いな作業ではないが、そこまで予測してゆっくり帰ってくるとしたら、悪質とも思えた。
見返した携帯電話のメール覧には、アスターがウィーンのプラーター公園で迷子を無事に送り届けた報告がオーストリアから(迷子は恐らく本人のことだろう)、ベルリッツが山羊と仲良くなったことをリヒテンシュタインから(終盤の文章が文字化けしているのは、スイスがハッキングしたのだろう)、ブラッキーが親指姫の絵本を熱心に眺めていたので読んでいるに違いないとデンマークからの報告(これは絶対眉唾だ)があったが、やはり肝心な人は顔を突き合せるどころか長らく着信もメールの一本もない。
代わりに、ソファには、インドからと思われる、象のぬいぐるみと紅茶と赤い唐草模様のショールとカレーパウダー。
冷蔵庫の中にはスモークサーモンの真空パックに燻製の干しダラにトロール人形のキーホルダー。どうやら、こちらはノルウェーらしい。食品だけ入れればいいものを。
暖炉の前には葉巻にラム酒に振ると音が出る木彫りの楽器。恐らくキューバだ。
家に増える土産は、3日前に自宅に寄ったときと変わりがなかった。
兄のペースに踊らされているようでしゃくだが、前回ようやく根負けしてシンク脇に置いた栗・ヘーゼルナッツ・ピスタチオと詰まったナッツ類にコーヒーの袋は、最初は菓子に使うから、菓子にはコーヒーが付き物だから、サービス精神旺盛で商売も上手い歳嵩のヒゲの国に勧められてしまったからとか理由をつけて土産を買ってしまった。歓迎にのせられたのと、移民を受け入れて労働力にしている義理もある。
そもそも、最初はナッツも1種類だけにするはずだった。兄に写真添付でメールをしたが返事が来なかったので3種類も買ってしまったのだ。自分が元来旅行好きなのはわかっている。一度、出張を旅行に切り替えるスイッチが入ってしまうと早々オフにはできない。
今回のコアラのぬいぐるみと先住民族風に仕上がったブーメランと薬にもなるユーカリオイルとオパールのカフスボタンはどうしようか。書斎にでも置いておくか。
腹の突き出た壮年男性たちがサーフィンするビーチから、飛行機を降りた途端、いそいそとコートを身に着ける乗客たちの異様なことよ。かく言う自分もその一人ではあるのだが。知識としては知っていても南半球からの帰国はいつも不思議なものだ。
サンゴ礁の森に、細かい砂の指通り、何よりあの北のわずかな海しかない自分には無い荘厳たる海岸線……!あんなリゾートで二人寄り添い、やしの木に身体を押し付けて、ためらう兄の唇をなぞり、そして二人は……。
だめだ。我ながら重症だ。オーストラリアの雄大な自然が俺を惑わせたのだ。そもそもあんな遠くまで3日で行って帰ってくるというスケジュールがどうかしている。いやいや、もしかしたら先住民であるアボリジニの秘術とかかもしれない。きっとそうに違いない。
普段、余計なものを増やすなと口をすっぱく言い聞かせているのに、言ってる自分が何たるざまだと自分でもわかっている。おまけに、最後の一つはちょっとした記念日レベルのプレゼントだってことも重々理解している。だって、青にも桃にも色が変わるのが、髪の色にに似合いそう、いやきっと似合う、と思ってしまったのが運のつきだった。
まさか兄が連絡をよこさないのは、しびれを切らした自分がどんどん土産のグレードをアップすることを狙って……。ありえないと言いきれないのが、兄プロイセンである。
このままだと、次回のベルギー土産は、チョコレートやレース小物程度ならいいが、オランダ譲りの商人魂が宿ったリボン娘から、世界一のダイヤモン市場があって上物が集まるのをいいことに、ティファニーもカルチエもハリーウィンストンもびっくりな宝石でも買ってしまいそうだ。隣なのに! 車で飛ばせば半日で行けてしまう隣なのに!
休養が必要だと言うことは自覚していた。幸い、今夜は自宅で休める。
バスタブにジンジャーの匂いがすると思ったら、漢字がかかれた入浴剤の封が切られて、隅に置かれていた。自分たちのような存在にはわからないが、風邪や冷えに効くとか、保温と保湿効果があるのは知ってたが、兄が残した土産の石鹸やバスソルトは一人では使いたくなかったのでそのままに、シャワールームへ入る。
「うわっ」
顔に、紙を鳥の形に折ったものが沢山連なったオブジェが張り付いた。赤やピンクの連続に驚くが、兄はこういう細かくて役に立たないモノが大好きなので仕方がない。
洗面台から備え付けのオイルヒーターまでを見回すと、プラスチックで出来たカタナに、鏡にくっついた寿司マグネットに、指2本の上に乗りそうなデジタルカメラに、ビニールのカバーをかけられたMANGAが何冊もと、常温保存可能なマンジュウの箱があった。カオスだ。俺の家のバスルームに、アサクサとアキハバラが共存している。
そろそろ俺は、日本にいい加減兄に土産を持たせるのはやめるように進言するべきだろうか。
この調子なら、ここのところ行ってなかった図書室や屋根裏にもどこかしらの国の土産が置かれているに違いない。
スワンネックのシャワーの下、ため息ばかりが陶器のタイルに溶けていった。
うっかり、いつの間にシセイドウに変えられたシャンプーで洗髪してしまって、肌触りのいい群青格子柄の薄手の和服に袖を通す。以前、日本の家に泊まった時に出してもらったユカタという寝巻だろう。タオルが全て出払っていたため、床を濡らしてシミを作るよりは、と仕方なく着た。ううむ、紐の結びはこれでいいのか。わき腹に当たって少々くすぐったい。リョカンというところに泊まったときに着たことがあるが、よくわからない。
そのとき履いたものとよく似た、枯れ草を編んだサンダルもあって仕方なしに履いた。ええと、これはワラジというのだったか。こちらも、床を濡れた足で歩くよりは良いだろう。現地で履いたものはもっと窮屈だったが、これは自分の足で履いても余りある。こんな大きなものを、どこで買ってきたのかはよくわからなかった。本来は祭で使うような縁起物なのかもしれない。我が家でも、オクトーバーフェストのときは特別大きなジョッキを使うように。
そのまま、タオルを探しに吹き抜けのホールまで出た。ここから階段を上れば、寝室付属のシャワールームのタオルを取りにいける。
踏み出したところ、ともすると滑りそうな感触に足元を見れば、布が落ちていた。柔らかい手触りと細かい刺繍。上質なカシミアだ。
次の段には、騎馬民族風のフェルト帽に、その上には羊のぬいぐるみに、そのまた上には水晶と見まがう青い岩塩、塩漬けのキャビアの缶詰と点々と続いている。並べられたというより、散らばった配置。モンゴルにも行ったんだとどんだけアピールしたいのだ、と2階を見上げて睨みつける。
イライラしているせいか、頭はなかなか冷えない。タオルもいらないくらいかもしれない。階段を上ってきたこともあるだろう。暖かい空気は上に昇るものだから。
大体、俺は土産というものが、本当はそんなに好きじゃないのだ。
かつて兄ばかりが遠征して、留守を任されるしかなかった時代。ニュルンベルクのからくり玩具の精巧さや、ドレスデンのバームクーヘンのバニラ香や、ケルンの聖堂ゆかりのぴかぴかの十字架よりも、無事に帰ってくれた安ど感や、同行出来ない自分の歯がゆさばかりを覚えている。兜や血を被った鉄くささに頭ごと抱きしめられて、それでもかけられる言葉は快活そのものので、うなづくしかなかった小さな身体を思い出すのだ。
おれもつれてってくれ。
たどたどしく、しかし何とか顎を上げて、そう口に出せるようになるまで、どれほど歳月が必要だったことだろう。思うにあの頃から、兄の土産という行為は自分の希望とはちょっとズレているのだ。昔も今も、こんなもので機嫌を取り戻す子どもではない。
それでも、予定より早く帰ってきてくれたときは嬉しかった。馬から落ちるように降りて、部下たちに担がれながら、それでもおいでと伸ばされた手。それは泥がついていたり、汗が混じっていたりして、ことさら熱く。怪我がない限りは、そのまま、一緒に寝てくれた。
それができなかったのは、それこそ大戦後ぐらいだけかもしれない。
約束を守るどころか、約束以上のことを果たそうとして無理をする。こちらの心配なんか知りもしないで。
そこまで考えて、階段の中踊りから、兄の寝室のドアを見る。
この位置からそこを見ることは何度もあった。上背は伸びても、こうやって下方から見るのは昔からの習性なのかもしれない。治したいのだけど、治せそうもない。
不在を憂うときもあれば、想いを嘆くこともあった。そわそわしてどうにもならない気持ちを抱えたこともあった。もうすぐドアノブを手に取る瞬間を待ち望むときもあった。
会いたいと見上げて呟くと、同じ姿勢で先ほど家の外から兄の部屋を見たときの、氷点下の中でも凍ってない窓が脳裏によぎった。
氷点下の中でも凍ってない窓、シャワー上がりでも冷えない室内気温、誰かが出て行った気配の無い雪で覆われた玄関にガレージ、世界一空気の読める国が土産に持たせた入浴剤、階段で散らばった土産――。
俺が土産に対して抱くのと同じように、兄もその頃と同じく、予定より早く帰ろうとする習性が今も続いているとしたら……。
「兄さん!」
鍵のかけられてないドアは、簡単に開いた。そこには温かい空気と毛布の小山が。ひっぺり返すと、そこには血の気の無い顔とクマのできた目つきが覗く。
「……んあ」
充電の切れた携帯電話と、ゲーム機と、燻製のヴルストと、古い軍用の水筒と一緒に、じっとしていることが本来は苦手な兄がそこにいた。思わず、床に膝を付く。
「あれ、俺、寝てた」
普段揺れているくせに、こういうときだけ気配を消すのが上手いなんて反則だ。
「いつ帰ってた。何日」
「あ、わり」
サイドテーブルの充電器に携帯をセットして電源を入れると、メールの返信が途中保存されていた。家に戻ったこと、どれも迷うから栗もへーゼルナッツもピスタチオも全部買ってきてほしいこと、たわいもないことだ。
そうなると、トルコからの土産を俺が台所に置いたとき、既に兄はこの部屋で……。
「うつるとヤベェから、あっち行ってろ。な、いい子だから」
鼻をすする音が、暖房の効いた部屋に沈んだ。頬が赤い。差し入れると、目が細められた。自分よりいつもは冷たさを感じる額が、熱さを持っている。大寒波と欧州不況の余波は、苦難の出張生活をしている自分ではなく、どうやらこちらを襲ったらしい。
「お前の手、冷たいなぁ。気持ちいい」
こちらを子ども扱いしたと思えば、今度は子どものように安堵しきった顔で、瞼を預けてくる。まずい、そんなとろみのある声で囁かないでくれ。1ヶ月以上、連絡もとれてなかった身体に堪える。
この人は、いつだって、最大限の努力をして、最大限の善意と好意を示し続けていたのに、俺は。
「ごめんな。雪かきして、掃除しようと思ったけど。身体うごかねぇや」
「兄さん」
距離や、仕事や、予定は言い訳にならない。3日前、自分はここにいた。その時点で兄に気づくべきだったのに。
謝らなくてはいけないのは自分の方なのに。
膝に兄の頭が落ちていた。額に髪の毛が張り付いている。閉じられた瞼には、それでも穏やかな口角が添えられていた。
「おかえり、ヴェスト。ユカタ、似合ってるぜ」
半分寝言のような声は、少しせいた呼吸音に重なる。
一人にさせたこと。気づいてやれなかったこと。身勝手だと責めている自分が一番身勝手だったこと。
うつむいて謝る言葉しか言えなくなった俺の頭を、爪まで赤く染まった指が湿り気を帯びながらも、なでてくれた。指の隙間から窓越しに見える星空は確かなものだった。
涙模様に露が流れる窓は、小さな光しか今は通すこともできないけれど、灯りのないこの部屋では、名前もなきそれらも大切なもので、この腕をしかと見せてくれる。
片手で祈るような形の手をつなぐと、少しだけ吐息が穏やかなものになった。ささやかな幸せを、安らぎを、子守唄を。水を、ぬくもりを、滋養のある好物を。
返せるものはわずかだが、今はただこの手を取っていたかった。
FIN
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