あの日のことはよく覚えている。頬を腫らした君が、ぼくの家の扉を叩いた。
ぼくは初めて自分から訪ねてきてくれたことがうれしくて、時間もないことだからきれいな景色を見せることにとした。ママの土地は、ぼくの自慢だったから、きっと喜ぶだろうと。
家の近くには釣りができる大きな湖があって、サウナに入った後は飛び込んだりしたものだけれど、その日は静かな湖面にそっててくてく歩いた。いい天気だった。
君は笑っていたね。痛そうなのに笑っていた。
ぼくは持ってきた救急箱を岸辺に置いて、綿球を当てたらこう言った。
「初めて断れたんです。殴られましたけど。でも、あの人も本気じゃなかったからこの程度で済んだ」
軍服以外を来ているところを、初めてみたということもあって何だか新鮮で、こそばゆいような何というか。ぼくは立ち上がり、ぺろんと出ている膝小僧を払って、空を見た。
「それはスゴイことですよ!」
「ありがとう」
ぼくらは手をつないで色々な話をした。最近あったことも、昔あったことも。他の国がどうしているかってことも話した。
君は最後にこう言った。
「ねぇシー君。どうしてきみは残……」
ネコ科の子どもを思わせる軽い頭がこちらの頭に落ちてきて慌てて受け止めた。国の中ではとても小さかった君なのに、そのときのぼくにとって運ぶのはとても大変だった。
その重さに何が起こったか考えることもできなくて、震えながら家のドアを開けたら、父と呼んだ人は愛犬を撫でながら、母と呼んだ人はコーヒーケトルを傾けながらテーブルクロスに突っ伏していた。腕を伝って落ちていくシミが床にまで広がっていた。
ぬるくなった黒い匂い。
そのテーブルクロスで数日前にした会話まで、黒い匂いが染まっていく。まっしろなテーブルクロスをアイロンをかけた上で交換するのはいつもパパの役目だった。
花たまごといつもの探検に行こうとしたぼくを、彼は引き留めた。
「シーランド。座れなぃ」
「どうしたですか?」
「大事な話があるんだ」
いつもの子ども用の椅子に座れば、すかさずママは甘いカフェオレを出した。ほとんどが牛乳のほんのりしたお気に入りの飲み物を半分ぐらい飲んだときに、ママの方から切り出した。
「もうすぐ僕たちはいなくなる」
花たまごが小さく鼻を鳴らした。
「僕たちだけじゃない。イギリスやアメリカや日本や、そう、君が知っている国も知らない国も皆いなくなる。人間ももちろんいなくなる」
「んだ」
「イギリスは忙しいから僕たちが代わりに伝えることにした。彼は中心的な大国だから、最後まで仕事をしなくちゃならなくて、すまないと言っていた。僕たちも、君には申し訳ないと思っている」
パパとママは嘘をつかないことをぼくは知っていた。知っていたけれど、最初の嘘がこんなのなんてひどいでありますよと言おうとした。言おうとしたけれど、ママの目に押されて言えなかった。口を開くこともできない緊張をぼくはそのときに初めて知った。
僕の顔色を見て、パパが小さくフィンとママを呼んだ。小さくごめんねと言って、彼もいつもの柔和な笑みに戻した。
当たり前だったむにむにした頬が少しへこんでいた。ダイエットかとここ数日思っていたことは外れだった。だってこんなに目が赤いママを見たのは初めてだったから。
マグカップを持つぼくの手をそっとママは包んで、ゆっくりシーランドと呼んだ。シー君より丁寧なその呼び方はいつだって満たされた時間に使われるものだった。
「君は僕たちとは少し違う。正確にいえば国ではないし、国民という概念も僕たちより希薄だ。だから、地球から避難しても生き延びる可能性が高い。僕は何も知らせずに避難船に乗らせるべきだと思った。イギリスも同じ意見だった。けど、スーさんに説得された」
赤い目が揺らぐ。揺らぎながらも願っている。何を願っているかは子どものぼくには、ぼくなりに考えることしかできなかったけれど、多分、当たっていたと思う。
「君を自分の息子だと思うのなら、その選択権を認めるべきだ、とね」
言いきったと思ったら、見る見るうちに、赤い目がどんどん湿ってきて、ごめんね、ごめんなさいという言葉をたくさん零しながら顔を伏せた。肩が震えている。
わなないている肩をそっと抱きながら、ぼくとママの手の上から大きな左手を乗せられた。おもちゃやおかずについての会話と変わらない、いつもとバリトンが簡潔に言った。
「選べ」
何かが起こるだろうとは教えてもらった。でも、起こった後どう過ごすかは自分で考えるしかない。
動かなくなった大切な人や、育ての両親に困惑しながらも、誰かいないか、誰かいないか探すことにした。
ママのクリスマスプレゼントを運ぶときの住所録が役に立った。しらみつぶしに探したが、ほとんどの国は自宅でこと切れていた。住所以外はわからなかったので、半分くらいは見つけられなかったけれど、ヨーロッパを南下していって、とうとう西のはしっこまで来たあたりで珍しいものに気づいた。
煙だった。
雷での山火事はたまにあったけれど、決定的なのはその煙がやたら香ばしい小麦の匂いがした。
温かい食事に久々にありつけて、焼きたてのピザをがっついているぼくを、兄と同じくらいの年かさの青年は、食いぶちが倍以上になったと文句を言いながらも迎え入れた。口汚いのは色々慣れていたから、ああこの人も兄みたいな人なんだな、と思った。
ロマーノのコノヤローとは、お互いそれが初対面だった。
「スペインを放っておけねーんだよ」
泣きはらした顔で笑う青年をしょーがないですよと慰めて、代わりに今まで見つけた各国の身体を分け隔てなく預かってほしいと頼めば、交換条件として彼の弟を見つけだすことを条件に承ってくれた。どうやら自宅にもめぼしいところにも見つからなかったそうだ。多分、ジャガイモ野郎と一緒だろうと言ったが、それ以上はヒントを持っていなかった。
というわけで、ぼくの本格的な旅が始まったのです。
もう気分はRPGの勇者ですよ。借りた農作業用のリアカーだってF1並の装備品ですよ。
最初に、ロマーノのところから割と近い中でわかりやすかったスイスと、一緒にいたリヒテンシュタインを運んで、次に自宅のピアノの鍵盤に指を置いたまま意識を失っているオーストリアに、その部屋のソファでコーヒーを淹れていたハンガリー。
思ったよりあっさりイタリアは見つけられたですよ。
オーストリアを横断しているときに、古城の一つの崩れかけた門の前でドイツと肩を寄せ合って横たわっていました。
ロマーノに引き渡したら、渋ちんのアノヤロウが初めて酒を振舞ってくれたですよ。
スペインのお屋敷は、パパとママの家の何十倍も広くて、寝室だけでも数十個あったから、即席ベッドを収穫した麻で作ればいくらでも収容できたですよ。皆の身体はいつかイギリスの野郎に連れて行ってもらった蝋人形館の人形みたいに硬かったから、やわらかいベッドじゃなかったのは、ごめんなさいですけどね。
パパとママは北側の夏でも涼しい部屋にしてもらいました。今日もあとで見に行きます。はなたまごも一緒に眠っています。ぼくは後で花を摘みに行きます。
君のこの部屋は小さいけれど日当たりのいい、ぼくのお気に入りの部屋です。
元々は子供部屋だったらしいですね。電気を通したので、ゲームで遊ぶこともできますし、音楽も聴けます。ぼくが旅に出ているときでもさみしくないように。君は音楽がとても好きだったから。
窓辺のスズランの鉢は枯れていないところを見ると、ロマーノのコノヤロウが水くらいはやってくれているのでしょう。
帰ってきたときは、そこのソファで君を見ながら眠りました。おはようのキスとお休みのキスを額と頬にして、硬いのがちょっとさみしくて。
映らないテレビにかき集めてきたDVDを突っ込んで、やけ食いしてロマーノのコノヤロウに後で頭突きくらうのも気にしないで。で、うっかりそれが恋愛ものだったり、ひと際えっちな奴だったりするとずどーんと落ち込んだりしました。男の子ですから。
やっぱりアクションとか特撮とか気にしないで見られるのが一番ですよ。
いわゆる、大国という国ほど忙しかったのは本当のようで、兄を見つけたのは、ヨーロッパの中でも最後だったです。
北海油田の海底にあった軍事施設は、侵入するのに何年もかかったし。不可能な任務に挑む超優秀でグレートな工作員のテーマを口笛で吹きながら、挑んだですよ。
すっかりヒーローですよ。助けるのがイギリスの野郎ってとこがしゃくでしたけどね。
イギリスの野郎がいた部屋は、無機質な基地の中で、なぜかそこだけ自宅に似た応接間のようなオフィスでした。
モニターやら何やら設備はされていましたが、その趣味が感じが悪いな、と思いましたよ。あたり一面、白墨の陣で埋め尽くされていて、計算式や理論について書かれた紙が散らばっていて、革張りの椅子の中、銀のウィスキーケースのポケットに手を突っ込みながら緑の目を閉じてました。
ウィスキーはまだたっぷり入ったままでした。多分、一人になるまで飲む余裕もなかったんでしょうね。
ぼくは毎年クリスマスの日に一滴だけそれを垂らした紅茶を飲むことにしています。膝ポケットに入れていた手帳から、そのときの前のクリスマスでイギリスの野郎とぼくとアメリカとその他何人かで映った写真が見つかったので、あいつの誕生日をぼくは知らなかったからその代わりに。
ママのお仕事が忙しいので、クリスマスは仕方ないのでイギリスの野郎のところに毎年行っていたものですから。
早く起きないと飲みきっちゃいますよと彼の眠る前でね。
ぼくは、まだ政治に立ってなかったから、国々に対して嫌いとかの気持も薄くて、君にひどいことをしたあの国でさえもどこか強さが羨ましくて憧れさえ持っていたです。正直に話すと。
大昔に見た日本の特撮映画の大怪獣みたいな? 格好いいでしょ。
え、あの人がどこにいたって?
限りなく南の国境の、もう誰もいなくなっていた紛争地帯だったですよ。もちろん、そこには動植物しかいなくて、彼らにとっては自然の楽園になっていました。
何しろ広い領土だから、結構苦労しましたですよ。
あの人を見つけた頃は、気候もかなり変わっていたからその頃と違って、緑も溢れてて。
そうそう。ひまわり畑になっていました。種を持って帰って植えてもらったのが東の畑です。種がおいしいんですよ。
見つけられなかった国もありますですよ。
中国さんは変わった術で代わり身を置いといてあって、主さまは遠くに行きましたある、と彼そっくりの形で言っているのがとても面白かったです。そのうち、その代わり身が話してくれたことも話しましょう。
日本さんは、たまに、パソコンの中にあらわれてですね。ヒントをくれるです。お助けキャラですね。
お助けキャラは他にもいて、そうそうひげワインを見つけたときなんかは、鎧姿の女の人がですね。旗を持っていてですね。半透明だったから、また人間じゃないんだな~でもずいぶん古い格好だな~と思ったら、ふっと教会の前で消えて、そこをおずおずと入ってみたら、膝まづいたヒゲ野郎がいたんですよ。
あ、ひげは剃ってあったから、今はひげじゃないですね。
一番見つけるのが大変だったのはアメリカの畜生でしたですよ。
元々広い領土の上、情報のプロテクトが厳重だったからどこを探していいかさっぱりだったです。
どうにか、兄の最後の通信記録を解読して、あたりをつけていって何十年もかかりました。
兄と同じように最後の最後まで仕事に殉じていたアメリカは、間欠泉が噴き出す大地のはるか下にある核シェルターの軍用モニターの前で、ひっそり眠っていたですよ。
あと少し遅かったら、地殻変動でマグマに吹っ飛ばされているところでしたので本当ぎりぎりでした。
散乱したデータファイルや資料に包まれながら、世界一だった大国は声一つ出さず、時間を止めていた。その姿は以前に発見した時とまったく同じだった。兄のより性能が良かった彼の機器は、最後の映像も残していて、彼らのやり取りも保存されていた。
兄さん、あなたはこんな顔もできる人だったのですね。こんなことを話せる相手がいたのですね。
幼心で気付けなかった、アーサー・カークランドという人間でいられた一瞬を知った。
二人には悪いけれど、動いている兄の姿が懐かしかったので、自分でも見られるように自分のファイルにインプットさせてもらった。
アメリカを見つけた時は、結構最近で、彼の大きな身体をかついで旅をするのも慣れてきたところだった。 望んできた成長がこんな形で果たされてしまうことに、ぼくはようやくそこで泣いた。
きみを抱えたときも、パパやママを見た時も、イギリスのウィスキーを舐めたときも、破壊された色々なものを見た時も、流れなかった涙が、そこで初めて。
ああ、目が覚めたばかりなのにあまり長い話はよくないだろうですね。
国としてあまり成熟していない所ほど目覚めるのが早いみたいです。
兄たちや両親が目覚めるまで、まだまだ数百年単位でかかるだろうけど、いつかは、とぼくは思っているですよ。
だって、ずっとぼくは今日を夢見ていたのだから。君がぼくをシーランドと呼んでくれるこの日をね。
ちょっと背も伸びちゃったし、声変わりもしちゃったし、服もロマーノのコノヤロウの在庫品だから、不良っぽいスーツとかなんだけど、あの日、言えなかったことをこれからたくさんたくさん言っていいかい? NOとは言わせないですよ。
……あ、ちょっと意識してみましたです。似てました?
もう、うれし泣きしたいのはシー君の方なのに、君が泣いてどうするんです。本当に泣き虫なんだから。
しょうがないから、抱っこしてやるですよ。キスしてやるですよ。
べっ、別に君のためじゃないですよ。ぼくが抱っこやキスがしたいからですからねっ!
fin
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