行き先を告げると、滑らかに滑り出したタクシーのドライバーは訝しげに、本当にそこかと聞いた。彼は中東系だった。アフリカ系やヒスパニックの多い地域とは相性が悪いのだろう。
典型的なWASPの姿をしている俺には似合わない場所だとも思ったはずだ。おまけにセレブレティも多数来ているイベントの帰りだ。俺だってこういう機会には、フォーマルな格好をしているのでサックス・フィフス・アベニューで仕立ててもらったスーツを着ている。
ニューヨークを楽しむにはお金がいる。住宅は高騰している関係でホテル代は高いし、食べ物も娯楽も何もかもが高い。
夏の余韻の残る夜は、興奮冷めやらないブロードウェイに相応しく風の匂いを嗅ぎたくて窓を開けたくなったけれど、イェローキャブは運転手と客を守るという口実の檻のような構造になっているので窓が開くことはない。
香水とハリーウィンストンの輝きとシャンパンの泡に酔いそうになったので、できれば少し換気が欲しかった。
そういえば、ちょっと前にヒットした小説で、そのまま殺人鬼の運転手が乗客を連れて行ってしまう話があった。まあ、ありそうなネタだけれど、そんな七面倒臭いことをしなくてもこの街はまだまだきな臭い。</p><p> 前の市長が強行して街のあちこちを洗いまくったお陰で、ひどいときと比べれば治安はよくなったとは言え、その分、悪かった地域に被害がより集まったような気もする。あの市長はマイノリティ嫌いで、マイノリティの方も市長を嫌っていたからだ。
ミュージカルの舞台になったイーストヴィレッジは、もうあの頃のボヘミアンたちが集まるような猥雑さは薄れてしまっているから、この車が向かっている場所、ハーレムの方が現在の雰囲気は近いかもしれない。
「ヌージカルのけぇりに、ヂャリティーでもすっだすか」
「住んでるんだよ昔から。好みじゃないミュージカルなんだけど、千秋楽だからって部下や友だちに無理やり誘われたんだ」
どう訛っているのか説明も出来ない訛りに返す。確かに、今のこんな格好の自分が行く理由があるとしたら、セレブレティの気まぐれで貧困地域に慈善事業へ行くように見えるかもしれない。
乗車拒否しなかったのは偉い。チップを弾んでやろう。
元上司が事務所を、元バスケットボール選手がショッピングモールを作る前から、ニューヨークで、いや、もしかしたら先進国の中で一番治安が悪い地域として代名詞のようになっているところに、アメリカこと俺は、フラットを持っていた。
90年代初頭の俺が風邪を引いていたときは、確かにひどいもんだった。この地域だけを見れば、その頃戦争をしていたボスニアやクウェートあたりと大して変わらないすさみ方だったかもしれない。
毎晩聴こえる銃声に、ラリったヤク中が怒鳴り、男女問わずどこかで誰かがレイプされる。
ここで生きると言うことは、安全を買うか買わないかの選択をすることになる。
なぜそんなところに住んでいるのかと言われれば、第一に俺はヒーローで風穴が開いても死なないこと、第二にグレイビーソースが絶品の店があること、第三に黄金の20年代から続くジャズクラブがあること、第四に美しい教会があること、第五に。
「最初の上司が住んでいた家がハーレムにあってね。それが縁なんだ。最近は再開発でホットになったから今の部下達も割と遊びに来るし」
イギリスなんかは、独立戦争時に俺や上司がいたところだからと気に入らなくて、絶対寄り付こうとせず、こっちに来る時はわざわざ自分でホテルを取る。相変わらず、ねちねちと過去を気にする奴だ。
朝、近所の教会からは不思議なくらいきれいなゴスペルが聴こえる。地下鉄が動き出す前の一時間ほどの静かな時間は、一日のうちで一番天国に近いと俺は思う。行ったことはないけれど。
強大でいて、慈悲深い音楽を聴きながらうとうとするのが大好きだ。コーヒーを飲むのも大好きだ。書類を作る手を止めて目を閉じてほんの少しだけ、かつて別れた英霊の安息を願うのも好きだ。
そう、あれはさっきの公演で聴いた和音のような。
内容がシリアス過ぎるし、フランスのオペラが元なだけにご都合主義も多いし、荒削りなところも多いし、21世紀になってしまってはテーマも古かったけれど、曲は素晴らしかった。その辺り、12年以上ロングランした理由はわかる。
おまけにニューヨーカーは刺激だとか、作者が公演直前に亡くなったとかいう悲劇なんかが大好きだ。最前列をミュージカルに縁のない若者のために、たった20ドルで提供するというのもウケがいいだろう。今夜も、奇抜な格好をした青年や、貧相な服を着た中年たちが涙を流していた。アカデミー賞やトニー賞関係者の隣にそうした客たちがいるのだ。愉快なことこの上ない。
暴力や貧困が主題のテーマとは裏腹に、メインの曲は神に祈りを捧げるゴスペル風で、一年という時間にして52万5600秒を愛で数えてみよう、という歌詞はシンプルだからこそ覚えやすく心に残る。これが日本が言ってたギャップ萌えというやつかな。
神の愛、人の愛。
だけど、愛に溢れているはずのこの島とその外は、十数年前と変わらず貧困やドラッグやエイズにさらされている。ちょっと重大な病気をしたら、医療保険がないからあっと言う間に自己破産だ。
俺はお金が大好きだし、お金を稼ごうとする気合も好きだ。強い者がその中で生き残って、弱い者に還元すればいいと今でも思っている。だって、その方が効率がいいじゃないか。
だけど、さっきまで一緒にいた仲間達が幕間でシャンパン片手にしてきた告白が頭をよぎっていく。自分とさして変わらない値段の服を着ている彼らの告白が。
実はHIVポジティブなの、実はパートナーが同性なんだ、実はクラックベビーだったんです、実は家族がWTCで亡くなった、実は……。
「俺を愛しているから、最後の公演を見せたかったんだってさ」
セントラルパークの柵の終わりが見え始め、そろそろ目的地に差し掛かってきた。一気に、街灯や商店の明かりの数が減っていく。道路にホームレスが目立つ。派手な格好の女達が、道端に立っている。
きっとこの景色は明日も変わらない。仲間たちが死んだ後も、俺は多分この景色を眺め続けるんだ。
俺は正しいのに、何でこんな気持ちになるんだろう。愛されているのが、どうしてこんなに苦しいんだろう。
見送るのは慣れているのに、健康で問題がなくてプライベートも順調な自分がどうしてさびしくなるんだろう。
「ええ曲だすな」
「何が」
「お客ざんの口笛。そんれ聴きどーて、運ぶの断ろ思ぶのやんじった。しーでーはどこで売っとるん?」
思わず唇に手を当てる。いつもより乾いた感触。無意識にやってたんだろうか。
ユダヤ人がつくった、キリスト教の賛美歌を、ムスリムが褒めている。
小さな奇跡と言われてしまえばそれまでだろう。だけど、そんな奇跡は起こる。気がついてみたら、奇跡はたくさん起こっている。
黒人の大統領候補がいて、女性の副大統領候補がいて、州によっては同性婚も合法で、元大統領がハーレムに通い、HIVポジティブの元スター選手は事業を行う。
そうしたものも、最初は誰かが違うエリアに足を踏み込んだから、波紋のように広がっていったのだ。
俺は声に出して笑った。テキサスが曇って見えにくくなっていたけど、拭きもせず笑った。おかしくて面白くて切なくて素敵過ぎて。
招待客向けの限定プレスコードCDをチップとしてやったタクシーを見送って、俺は玄関の鍵を開けるように管理人への通話ボタンを押した。遠くでサイレンの音がする。
それでも、明日もここで生きるために、ゴスペルが聞けるように目覚ましをつけよう。
どんなに過激なことが起こっても、アメリカの朝は、未来をより素晴らしいものにしようと願う祈りで始まるのだ。
fin
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