肩にかかる白い布は、ロマーノをどこか清廉な存在に見せていた。地中海色の目は閉じる度に潮を増した。腰を進めるにつれて頚に絡み付く腕が嬉しかった。
うん、俺も気持ちがええよ。
長い前髪が形の良い額に汗で張り付いていたので、分けながらキスした。何度もするうちに目が覚めた。
次の日も次の日も、そのまた次の日も、匂い豊かな夢を見た。褥からは段々遠ざかり、触り合うまで、肩を合わせるまで、指を舐めるまで、髪を抱くまで。
とうとうキスもしない、向かい合って食事をしているだけになった。
赤いパスタソースが唇に付く。ナプキンで拭っている。跡が付く。それだけなのだけど、そのロマーノがきれいだった。
不思議なことに、自分が今見ているときより大人の身体付きをしていたが、なおさら。
好きだなと思った。伝えたいと思った。だから言葉にした。
言葉にした途端、ロマーノは消えてしまった。イタちゃんに連絡しても、ナポリだと思うけれど電話がまだ通ってないと言われた。
こうなったらいったるで。行ってもっかい言ってやるで。
<されど人魚は踊る>
シチリアの朝日は高い。海岸線にぽつぽつと旧式の漁船を浮かべたご近所さんを視認した漁師は網を仕掛けて一息とばかりに煙草を飲んでいた。
マリネ液に漬けたオリーブをひと噛み。うるさい女房の自慢の逸品だった。昨夜はパスタ皿を投げ付けられたがオリーブに罪はない。
面食いな女房お気に入り作り手のは、昔ながらの方法で作られているらしく、市販品にはない弾力があった。
つまみしかないのでアルコールが欲しいものだと思った漁師は、ふと自分は既に泥酔しているのかという疑問が浮かんだ。デッキに手がかかったからだ。小型船には自分一人のはずなのに。
手だ。まごうことなき手だ。ばっちり五本、指もある。漁師はまばたきを二回したが、やっぱりそれは手以外の何者でもなかった。
手は淵に力を込めたかと思うと、腕、肩、頭と上がって来た。
青年だった。ブロンズの肌と、バジル色の目の若い男だった。服を着ていたが、当然ずぶ濡れだった。
自分が酔っていないことにようやく気づいた漁師は慌てた。マフィアに背中からズドンされたが奇跡的に急所を外して逃げ延びたような厄介者だったらどうしよう。このまま、もう一度突き落としてしまおうか。何せあいつらを敵に回したら、この島では生きていけない。
「大丈夫が!」
しかし、思わず駆け寄ってしまった。面倒ごとはいかんが、神様はこんな明るい日差しなのだから絶対見ているに違いない。
青年は勢いよく頭を振った。その時点で元気すぎた。どうやら、溺れていたわけではないらしい。血も垂らしていなかった。
女ならさしずめ伝説に聞く人魚が魔法で脚を生やしてもらったのかもしれないが、残念なことに映画俳優のような顔をしていたのにも関わらず男だったので、漁師はぼんやりと残念だなと思った。
男は、びしょびしょの前髪を持ち上げた。一層、目が鮮やかに浮き出す。開口した。
「悪りぃな~おっちゃん。ちっとばかしお邪魔させてくれん。で、ここどこなん?」
ベタベタのスペイン訛りだった。それはそれはもうベッタベタの。
「あ!自己紹介まだやったな。俺はアントーニョや。よろしゅ~」
濡れそぼった手を差し出されて思わず握手を交わしてしまう。勢いよく振られた。
「あんな~俺ナポリまで行きたいねん。どっち」
「ナポリ?北やけぇ、あっちんはず……」
「おおきに~。ほなな!」
ダイブの形に腕を伸ばして、自己紹介した男は再び海に飛び込もうとした。
「待つぜよ!」
「何や」
「泳いでくんが?」
「あー、俺ビンボーなん。ぐるっとまわるより海渡った方が速いねんけど、船乗れへんくて」
「ぐるっとまわるて。おま、どっから来たがや」
「イベリアや」
「い、いべ!」
西側の巨大な半島は、地中海の果てであり、この海の中央に位置する島まで膨大な距離になる。普通なら飛行機か、せいぜい客船でやってくる場所だ。
「サルディーニャで休憩はしたわな」
「そういう問題じゃのーて」
「スタミナ使う泳ぎ得意なんよ。水球とか、シンクロとか」
「それんしたって」
途中の島で休憩をしたとかそういう問題ではない。鍛えられていなくはないが、特別筋肉質な身体ではなかった。漁師もいつだったかテレビで見た、西の国で活躍する闘牛士ぐらいの体型だろう。セリエAの選手の方がずっとゴツい。
「悪いこといわん。おんし無茶はやめとき。今夜はわしん家にでも泊まって、本島くらいまでは送ってやっから、そっからヒッチハイクでも何でもしてナポリまで行きんさい」
「え~、少しでも早く行かんと……」
「上がったんがわしん船やったから良かったものの、マフィアのクルーザーだったらどうするつもりやったん!あいつらん近く泳いだら撃ち殺されるえ!」
「そっか~、痛いのはあんま好きやないなぁ」
「痛いんやのーて死ぬちや」
若い男が好きでたらふく食わせたがる女房は、多分泊めることを喜ぶだろう。
ナポリに行く理由を聞かないのかとせがまれた。この島はきな臭い稼業の人間も多いので、あまり突っ込んだことを聞く習慣がなかったので、けったいな理由でないことを祈りつつ聞いた。
上半身を脱いで、服を絞っていたアントーニョは、広げてばしりと手すりをはたいた。すれた木綿のシャツが、爆撃音のように響く。
「よくぞ聞いとくれた!会いに行くんや。何を隠そう俺の、俺の……何やろ?」
「俺が知るかい。べっぴんさんてことはわかるがな」
「えーすげー!おっちゃんエスパー?」
「顔に書いてあんがな」
シャツを錆びた手すりに結んで乾かし始めた青年は、もたれかかって無垢な学生のように笑った。海風に短い髪がなびく。
でなきゃ地中海泳がないだろうに。息子と対して変わらない年代に見える青年にとってはきっと恋愛が人生のすべてだろう。自分もかつてはそうだったと漁師も苦笑する。ラテンの男はそんなもんだ。
「胸でかいか」
「ちっこいな。どっちかっていうとケツや」
「ケツか。ケツはええがな~」
漁師は、涎を飲み込んだ口に煙草を分けてやった。思い出したのは、性欲か食欲か。あるいは両方か。マッチで火をつけてやる。仕掛け網を待つ間のいい暇つぶしの代金としては十分だろう。
生き返るわ~と一言。若い割にこの味がわかるとは、なかなか出来た奴だ。酒の趣味も合うかもしれない。
「あと顔に~、首筋に~、くびれに~、脚?」
「おおっ、そいつはすごいがな」
「おまけに料理も上手い。特にトマト練りこんだ手打ちパスタが最高」
「そりゃ最高やけん。ちゃんと捕まえときんさい。で、何じょ逃げられた」
煙は話を滑らかにした。波も穏やかで、実にいい天気だ。遠くで別の船も煙を出している。あちらも一服しているところだろう。煙が良く出る船は、操縦者も古い分、煙草が切れない。
恋愛対象として見ていなかった幼子がいつの間に成長していて驚いたこと。何度も夢に見たこと。泣いた姿がそれはそれは可愛いこと。
その間、妙に潮流を読むのが上手い彼の助言に従えば、まさに入れ食い状態でがっぽがっぽ戦利品がかかった。これなら女房の機嫌も直るだろうと漁師はほくそ笑んだ。
古い木箱に無造作に魚を入れて帰ってきた男たちを、家族が迎えた。市場で取り替えた現金の一部を渡す。残りは酒瓶になっていたが、客人といつもより多い現金に、漁師の女房は文句も言わなかった。
野菜が来るから後にせー、と女房は勝手口に歩いて行った。俺運ぶわとアントーニョが後に続く。
作り手は、この辺では一等こぎれいな顔立ちで線の細い男だった。漁師は、顔のいい男は嫌っていたが、持ってくる品で、食卓のレベルは格段に向上したので文句は言わなかった。
どれ挨拶ぐらいは、と漁師は腰を上げると、怒鳴り声が聞こえた。
「何でいるんだよ」
「何でおるん?」
勝手口には女房が立っていた。その隣には、一回り小柄な細い男を抱きしめるアントーニョがいた。
「どうしてここがわかったんかよっ!!」
「……運命とか?」
「疑問系にするな!どうせ行き当たりばったりで来たんだろ脳みそサフランが!離せこんちくしょーめ!」
「離さんよ。離したらロマーノ逃げるやん」
村はずれにあった小さな畑にいつの間にか移り住んでいた青年には、当初はちょっとした噂があった。やれマフィアの家出少年だの、恋人を待ち続けるロマンチストだの、町一番の美人を口説き落としただの。
酒場でぼーっとトマトの切れ端をつまんでいることもあれば、下卑た話を地元の若者達としていることもあったので、よそ者に厳しいこの島に珍しく溶け込んでいるのだろう。ハンサムにろくな奴はいないと思うが、そんなに嫌な伊達男ではないのかもしれない。
「逃げないからこんなところで、人前でやめろ!」
「あ、そっか」
べっぴんさん……?
まあ、確かに顔立ちは整ってなくもないが、ばっちりほとんど大人に近い体つきだ。爪の中には泥が挟まっているような男だ。
あんぐりと口を開けた漁師の隣で、女房が妙に機嫌よく弁当箱に出来合いの料理を入れ始めた。シチリアの女は動じない。
「客用ベッドを用意する必要はなさそうけんね~あんた」
「だな」
この辺りではこんな諺がある。余所のケンカの間にピザを焼け。
要するに、手出しするな、という意味だ。
この島では、神に外れることも当たり前。それでも、太陽がからから笑っている。
煙も青魚の匂いも、レモンの色さえも吸い取ってしまいそうな青空がまだまだ幅を利かせていた。
(fin)
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