肌のように滑らかな牛乳少々は雪が浮かんだみたいで、白い陶磁器に乗せられた10粒のイチゴは、血のように赤い唇を思わせた。
盆に載ったそれらの食事とも呼べない食事を運びながら私はため息をついた。
品質は確かに最高だけど、こんなぽっちりとしかない内容で何が満たされるというのかしら。
自慢じゃないが私はかなりの肉食いだ。何せ元は騎馬民族。
穀物を最近になって作るまでは、家畜を追って暮らしていたわけで、祝いでは一頭を分け合う。村中総出の解体には、幾度となく立ち会ったが、興奮と期待感で上気する人々の頬は、命の充実が確かにあった。戦場で武器をふるう興奮にもそれは似ている。どちらも残酷ではあるが、ハナから命より逃げてしまうよりよっぽどいいと私は思う。熱々の肉にかぶりついて、筋を噛みしめて、小骨を吸いながら、髄をほじりとる。その祝いまで生き延びた自分たちを称える勝利の味だ。歯が肉に到達する瞬間は、おたけびをあげつつ、太鼓さえ胸で鳴らしている。戦士たちは娘たちを誘って踊りだし、歌が得意なものも楽器が得意なものも思い思いに火を囲んで、大地の恵みと生命の巡りに感謝を捧げるのだ。
肉の匂いなどと無縁の世界である鏡や運動器具で覆われた部屋では、お気に入りの美容師とくるぶしまで届くウェーブがかった髪の彼女が、後ろを向きながら流行りの革新的な政治書の話をしていた。
盆を出せば、本来話すべき言葉でなく、私の言語で彼女は礼を言う。
最初に会ったときに、私をいたく気に入ってしまった彼女は、じゃああなたの言葉を教えてと言い始めて、あっという間に習得してしまった。
その間、よちよち歩きの子どもには見向きもせず。
知性があって、美貌もあって、権力さえあるのに、彼女の目には何かが足りない。
オリーブ油の匂いが広がる。ちょうど髪の毛の手入れの時間だ。この最高級のをイタちゃんが使ったら、どれだけおいしい料理ができるか。
月に一度行われるトリートメントの日は、髪の手入れだけでまるまる一日潰れる。30個の卵の黄身とコニャックのシャンプーを塗りたくり、大量のお湯で流した後は、クルミの殻の煮出し汁でコーティングする。
最後の仕上げは、自然乾燥させるため、濡れ髪のまま乗馬するのだ。たなびくその姿は、女神と言ってもいい。人間臭いギリシャ神話の誰も触れられない女神だ。
「またウィーンからの手紙なの」
「ルドルフ様からです」
「どうせあの婆の検閲済でしょう」
「でも……」
「……私の鏡ちゃん。あなたにそんな顔されると困るわ」
悪い人ではないのだ。でも、とてもさみしい人。同じ名を持つからこそ、心苦しい。
いつしか彼女は、私を『鏡』と呼ぶようになっていた。名を呼べば、ウィーンの立場を思い出してしまってつらいのだろう。
私にも愛称の「シシィ」と呼ばせようとする。しかし、宗主国の頂上に立つべき女性をそんな友だちのように呼ぶわけにもいかない。
「いいでしょう。可愛い息子のためですものね。夕方返事を書きます。そうすれば、あなたも手紙を一緒に出せるものね」
ほっとする嘆息が伝わってしまったらしい。王族とは思えないほど、こんな気さくな気づかいを女官相当に扱われるべき私に示してくれる。そうして洩らす苦笑に、諸外国の王族貴族たちもどれほど魅了されたか。
「あんな音楽しか能がない、堅物で面白くない眼鏡のどこがいいんだか」
「ああ見えて、結構粋な方なんです」
「離れたいと思ったことはないの」
「昔は攻撃したこともありましたが、一緒に過ごすうちに色々わかってきまして……」
「一緒にねぇ」
もちろん、彼女の夫もその一人であった。
美貌と気品と知性を兼ね備えた王妃は、日の沈まない帝国の象徴たる真珠だった。
しかし、真珠はころころ気まぐれに転がって行ってしまう。旅行三昧の日々は、あっちへころころ、こちらへころころ。かと思えば、お気に入りのこの別荘に閉じこもり、美容に明け暮れる。ウィーンの王宮にはもう何年も帰っていない。
原因は、いわゆる嫁姑問題だった。確かに上司のお母様は、メッテルニヒを放り投げるほど強引な方ではあった。自由を謳歌して育った彼女が旅先に幼い長女を連れて行ったことで、無理がたたって子どもがなくなったのを受けて、あんな女に子育てができるもんですか!と、皇太子たちを奪い取ってしまった。どちらにも咎めるべき要素があるが、女たちの戦いは根深い。
まるで、毒リンゴと焼いた靴をやりとりする物語のようだ。そう言えば、あれはこの人とその姑の両方が生まれた土地の伝承だった。
「ねぇ、独立する気はない?」
鏡越しに目が合う。
上司と仲の良いあの人はいつだったか、彼女を苦手だと言ったがほんのり顔が赤かった。その後に一族の前で演奏したシューベルトの情熱的だったこと。彼の場合、言葉よりピアノの方が正直なのだ。
もう付き合いも長いので嫉妬は起こらなかった。むしろ、可愛いなぁ、とハァハァした。長年生きているのに、授業参観にやってきた友人の母親がびっくりするくらい美人で、その前で演奏を披露しなければならない半ズボンの少年のようなところがあるのだ。
たまに届く手紙は、気遣いの言葉と、この女性の様子を不安そうに尋ねる疑問をいくつか、それと淡々とした日常のこと。ウィーンの最近の流行りのこと。
手紙でしかやりとりできないのはさみしい。こんな不自由なのも、同じ上司の命令に彼だけでなく私も従わなければならないから。
独立すれば新しい上司が持てる。対等に近づける。まるで昔のように。
「今なら夫を説得してあげる。私がちょっと甘い顔すれば、調印でも文章でも何でも用意するわよ」
イチゴは結局、彼女の口に入ることなく、潰されて顔や首に塗りつけられた。
自分の家のことで忙しかった私に、助けを乞う手紙が届いた。私にしかできない仕事だと。
恩はあるので、指示どおりに向かった。あの、ストイックな別荘へ。
昔つかった女官服に着替えていると、私が乗ってきた馬をさっそく散歩に使っていた彼女が帰ってきた。再会を敬意を持って祝えば、そんなことしないでと叱られた。
彼女の体型は、出会った時と何一つ変化がなかった。
最後にエプロンをはおろうとしたが、袖が髪飾りに引っ掛かった。、焦りながらほどこうとすると、そっと細い手が伸ばされた。柔らかく、優しげに解いていく。
「あなたはきれいだわね。いつまでも若々しい」
私の髪の毛に手櫛を入れた。そこそこ長い髪を滑らかに梳いていく。彼女ほど長くはない、しかし、劣化は絶対しない髪を。
「美しいハンガリー。私の鏡」
そして、この人は目で問う。世界でいちばん美しいのはだあれ?
私は、かつて答えた。宗主国の王妃の名前を。
「だから、あなたは蹂躙されてはいけないわ。あんな男に恋してはいけないのよ。ふふふふふ、うふふふふふ」
では、今は?
「片田舎で自分のことに専念していればいいの。その美しい顔を誰にも見せてはいけない。見せることなんて許さないんだから」
望まれるのは女性性の保護か、女性性故の嫉妬混じりの追放か。
どちらにしても、自由を得ている私にとって答えは決まっていた。
「だけど、たまにはオーストリアさんのピアノを聴きに行きますよ。だって、あんなに美しいんですもの」
髪が一気に数十本抜かれた。
骨が浮かんだ指の間に、抜かれた髪の毛が絡みついていた。
とっさの痛みよりも、60代という実年齢に相応しい皺が無数にできていることで怒りは湧かなかった。もうお姫様ではない彼女を見ている悲しみの方が強かった。
かつての偉大な女王は長命だった。晩年は、若い頃の美貌こそ失われたが、その威厳や人生でなしえたことの充足感は、彼女を実年齢より余裕あるゆったりした表情をとどめさせることに成功していた。
彼女と死の淵で何とか和解できた姑でさえも、実直な息子を育て上げた自負が滲み出た笑みを浮かべることが多かった。
だけど、この人にはそれがない。だって、自分の表面しか向き合っていなかったのだから。
乳房の底に飼われた魔女を捨てることも隠すことも気がついたらできなくなっていた。魔女は誰しもが持っているというのに。
もちろん、私も持っている。戦場に行く私。誰かに頬を染める私。上司たちにつき従う私。どれも私だが、それらを矛盾なく、それぞれの相手にはひた隠している。それを魔女と呼ばずに何と呼ぼうか。
だから、魔女になってしまったのは彼女の責任ではないのだけれど、違う道を選ぶこともできたことも事実だ。
顔色はお互い変えなかった。何事もなかったかのように昔と同じような話を始める。
「そろそろルドルフへの贈り物を考えなくてはね」
「大変遺憾ですが、皇太子はお亡くなりになっております」
「わかっているわ。喪服を着ているもの」
亡くなった後に愛を注いでも、すべては後の祭り。どんなに豪奢な贈り物も、珍しい旅の土産も、ピストルを自ら撃った魂には届かない。
私たちは、自分たちにはそういう対象が持てなかったから、ことさらにイタちゃんたちを私たちなりに慈しんだ。いつか巣立ってしまうのも自覚していた上で。
悲劇を知った私は、神聖ローマがいなくなってしまったときを思い出して、あの人の胸でたくさん泣いた。あの人の方が将来の上司を失って絶望に近かったはずなのに、何も言わなかった。そっと、髪を撫でてくれた。
その夜、寝室に届いたモーツァルトは、塩の街の匂いがした。偉大な早世の音楽家の故郷は、内陸にあるのにも関わらず、海よりも涙の色に近い湖がたくさんあった。
人間でない私より、よっぽど銀の鏡らしいあなた。簡単に素敵な笑顔を返してくれるのに、誰も触れることのできないあなた。
だけど、屋敷から、属国たちが次々と消えていく中、静かに奏でられるピアノが、あなたに届くことはこの先もないでしょうね。
オイル浴に向かう彼女につき従いながら、私はより本物の魔女に近い内心が現れないように、鏡の向こうに似た笑みを浮かべた。
fin
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