ここに、一人のメガネのAKYがいる。名前は、どっかの国家を思わせなくもない。
彼はここのところ少しばかり焦っていた。そろそろ、空気読めよと周囲から急かされているためだ。上司からも空気読みたまえ、とプレッシャーがかかってなくもない。
ある日、ブザーが鳴って、フラットのドアを開けたら、表情をうすぼんやりした笑顔と同じように変えることのないスーツ姿の小柄な黒髪の男が立っていた。ほんのり醤油の香りがする。
「こんにちは」
「やあ。どうしたんだい。珍しいじゃないか」
「面白いものを持ってきました」
ダサい真黒な鞄を玄関に置いて、いそいそと訪問者はとりだした。金属音までやぼったいバックルが外れて、出てきたのは、たくさんの企業名のロゴが書かれた銀色の双眼鏡だった。 大きさはちょうどAKYの掌に載るくらいだった。
「人の心がわかる双眼鏡ですよ。いいえ、お代は結構です」
ふふと声に出すか出さないかぐらいに、やっぱりダサい革靴をかぽかぽ揺らしながら訪問者は帰って行った。
「ただし、決して私たち国家相手に使ってはいけませんよ」
という言葉を残して。
願ってもみない商品にAKYの心は動いた。さっそく双眼鏡を片手に街に飛び出す。
『あいつ来ないな』
『株価やべぇぞ』
『あれも食べたい。ううん、こっちも迷うわ』
『昨晩の女は最高だったぜ!』
『オナラしたのバレてないよな……』
『お、サイフ見えてら。カモ発見』
コンクリートの街に、たくさんの声がイェローキャブのクラクションと一緒に反響している。
素晴らしい。実に素晴らしい。
これでもう空気読めないなんて呼ばせないぞ!とガッツポーズを決めた彼は、さっそく上司の対談相手に使って、『読んだ』情報を知らせて褒められた。
これなら、夏休みをすぐにもらえそうだとほくほくしたのは言うまでもない。
早目にもらえた夏休みで、彼は大西洋の向こうに飛んだ。
誰よりも、彼を空気が読めない奴と口を、きっついビネガー並に酸っぱくして言う育ての親を見返してやろうと思ったためだ。
「DDDDDDDDD!! 遊びに来たんだぞ!!」
レンタカーから手を伸ばして、呼び鈴を鳴らしたが、相手のマナーハウスは広大で、邸宅の手前には庭が広がっていた。
大抵は、相手はその庭のどこかで雑草に毛が生えたぐらいの草花をいかに雑草らしく散らさせて咲かせるかに心を尽くすことが、休日の日課であったので、彼は双眼鏡を取り出した。
すっかり、双眼鏡の開発者の忠告を忘れて。
アメリカのせいで
アメリカがいなければ
アメリカなんていなくなってしまえば
アメリカなんかいらない
アメリカは
アメリカが
アメリカの
アメリカ
たくさんの言葉が、それは幾万に重なり、そのどれもが聞きたくないばかりの内容で、双眼鏡に気付いた相手は、オールドローズの咲くアーチを背景に、うれしげな顔を向けた。
まるでこの世の狂おしい春が、一編に咲いたような。
「ねぇ、日本。これ、壊れてるんだぞ。イギリスが何を思っているかもう覗けないんだ」
『おやおや、ご忠告したのに覗いてしまったんですね。私たちを覗いたら国民が思っていることすべてを映してしまう上に、悪意というものは強調されがち。だから、必ずしも私たち本人の気持ちと一致しないというのに……』
「日本。イギリス、動かないんだぞ」
『動けなくなるようなことしたんでしょ』
「日本、俺どうしたらいいんだい」
『そうですね。洗面所の鏡でもその双眼鏡で見てみたらどうです。少しは落ち着くんじゃないですかね』
「そうするよ」
「……まあ、国民の不支持の内容が見えてしまうだけですがね。私だったら切腹したくなるくらいの」
了
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